651話 立ち小便がなくなったら 

関西空港という地の利を考えるなら、そのトイレに全世界の男性が集う可能性というのは、たとえば大阪の天下茶屋八尾駅前よりも飛躍的に高い。

ということは、この

「的を見ると当てたくなる小便時の習性」

というのは、これは人類共通の男性の習性であると言えるかもしれない。


さて、筆者は何が言いたくって、延々おしっこの話をしているんだったかな。そうそう、新聞に「男性の3割が、洋式便器に座って小用を足している」という新聞報道を読んで、世の男性のあり方に危機感を覚えたのであった。


はたまた少子高齢化の行く末に、いっそうの危機感をつのらせたと言ってもいい。


立って小便する、という男性がみずからが「雄」であることを自覚する数少ない機会を、それほど簡単に手放していいものだろうか、という思いである。


不二屋のこと、耐震偽装のこと、ねつ造テレビのこと。昨今は「帳尻さえあってればいいんじゃないの」というまことに底の浅い仕事の仕方によるほころびが露呈して、社会問題になっていることが多い。


仕事に対する「誇り」とか、職人としての意地とか、職業人としての使命感とか、そういったものが極端に軽薄化している。


そういったものを持つ人が少なくなるほど、世の中は成り立たなくなる。そういったものを持つ人たちのお陰で、今の安穏とした暮らしが享受できている。


しかしながら、そういった「俺っちは江戸っ子でい」とか「職人でぃ」とか「ぽっぽ屋でい」とか言った矜持というものは、別に周囲からしたら理解不能な本人のみの納得というかよりどころによって成り立っている。これこれこういう理由で江戸っ子であるからには、熱い風呂の湯を我慢する、と言う明白な理由付けなどない。


いうなれば、その彼のよりどころにしている背景にある生活様式に組み込まれていると、本人が思いこむことによって成り立っている。


和式トイレが絶滅の危機にひんしている。これによって推定平均一日一回、下っ腹にぐっと意識やら気やらを集める機会を日本人は失った。


立位による小便を手放そうとしている。これによって一日数回、腰をぐっと入れて我が男性の男性たるゆえんをぐぐぐと前に突き出し、「俺は男だ」を意識する機会を失おうとしている。


これらの生活様式を手放すことによって、どんな影響があるのか、というのは不明である。しかし、雄が雄を意識する希少な機会を手放すことにはやはり危機感があるのである。