1362話 今年一年ありがとうございました 

「ごくせん」の再放送を観る。


一つのセリフが見たくって観る。



ラストでは、たいてい、生徒たちが極悪非道の他の不良たちに「ぼこぼこ」にされている。


そこへヤンクミが駆けつける。


と、相手のリーダー格が問う。


「おめえは何なんだよ」


次である。


「私はこの子たちの担任の先生だよ」


何と素敵なセリフだろう。


この決めぜりふなくして、「ごくせん」の魅力はない。


戦いの前提が「リベンジ」というような私怨・個人的事情ではない。勝利の栄光を目指すといういわば私利私欲ではない。かといって「正義の味方」というようなあいまいなものではない。


「おめえは何なんだよ」


という悪党の質問を翻訳すると「あなたはなぜ、このような危険な救出活動をするのですか?」


と言い換えることができる。


それに対してのヤンクミの返答


「私は、この子たちの担任の先生だよ」


というセリフは


「お仕事ですから」


と答えているのである。


何かをやろうとしたら、そこには理由がないといけない、というのが、テレビなどでくり返し見せつけられる図式である。


スポーツ選手に「何がそこまでやらせた理由ですか?」とインタビュー。ごくせんの後、午後から最終回を再放送していた「ルーキー」では「甲子園に出ることで、この試合に勝つことで、立ち直れるんだ」という理由がこじつけられていた。(と言いながら観ながら感動しているんだけど)


自分がうまくいかない時に、そういった情報を繰り返し見ていると、俺がうまくいかないのは、それに足る理由がないからだ、ということになりかねない。


私にふさわしい場が与えられていないとか、賭けるに値する何かが見つからないとか。


人によっては、占いに頼ったり、前世まで見てもらって、理由付けをしたりしている。


それらの「理由」は短期的には有効な場合も多いであろう。


しかし、理由の強化にそれだけの資源を投入しているということは、肝心の本番に費やす資源をそれだけ減らしているとも言える。


また、それらの理由がなんらかの理由で消滅した場合、たちまちにして萎える。


すると、また次の理由探すために、資源を浪費しなければならない。


そういうことを数限りなくくり返してきた筆者にとって、それら「理由付け」にまったくエネルギーを費やしていないヤンクミの


「私は、この子たちの担任の先生だよ」


という一言は、実に珠玉の一言として脳内に反響するのである。


そう、ヤンクミは「関係性」の中で生き、能力を相手との関係性の中で引き出されているのである。




ところで、ラストのアクションシーンを2〜3話見ていて気がついた。


突き蹴りを主体にすると、ヤンクミの技ではあまりに迫力不足になるからだと思うが、すかし、すれ違いざまの打撃、逆を取っての投げ、などが主体になっている。


群がる子分どもがやられると、最後にリーダー格の「一番悪いやつ」が、鉄パイプかなんかを持って襲いかかってくる。(まあ見事に時代劇のパターンである)そこで、ヤンクミは一つ二つスカしたあと、寸止めの顔面への突きを入れ、相手が硬直して動きが止まったところで強い一発を入れるのである。


この「寸止めで相手が硬直してしまい動きを止める」というような技を、これまでアクションシーンで見たことがなかった。でもこれって、あれだよね。あれ。



今年一年、私とかかわってくださったみなさまありがとうございました。

このご縁に感謝します。

みなさまにとって、来年がよりよき年になりますように。