茂木さんの3.11

モギ展の時、いろいろと話をした。


その日、茂木さんはどうしていたのか、ということもその一つ。



その日、生まれたての赤ちゃんを連れて、湊小学校近くに借りていた工房に行く予定にしていて、そこで会う人との約束の時間が2時だった。もし予定通り2時に行っていたとしたら、赤ちゃんを連れて何件もあいさつ回りをしていたことは間違いないので、地震、そして津波の押し寄せた時間帯にそのあたりにいた可能性はきわめて高かったという。


湊小学校付近というのは、3月末から4月中旬頃まで、何隻もの船が道ばたにあったような被害を受けた地域だ。もちろん、まともに建っている家が珍しいような地域だ。


なぜそうなったのかを覚えていない、ということだったけれども、結果としてモギさんは、時間を繰り上げて12時に工房を訪れ、顔見知りの人が赤ちゃんを預かってくれるというので、預けてあいさつ回りなどを済ませ、2時前には南境の自宅へと戻れていたという。


南境の絆ベースのすぐ斜め前がご自宅だったという。(そんなことも知りませんでしたね、昨年の当時は)


3月から4月上旬、支援物資の配布場所にもなっていた南境の生活センターに、炊き出し食材として大量のバナナが届いた。事情があって「ご近所のみなさまにもどうぞ」ということになった。それでモギさん、バナナをもらいに生活センターに顔を出したら、すでにバナナはなくなっていて、ちょうど居合わせた助さんから「えっ、地元の方?ちょっと手伝ってよ、はいはいはい、入って入って、」てな感じで始まったのが、その後半年、どっぷりと事務局を背負うことになった最初だったという。


津波の直撃をまぬがれた南境だったから、ボランティアに理解のある方々ばかりでもない。住民とボランティアの間に挟まってずいぶんと骨も折っていただいたようなモギさんだったようだ。


そんな話や、違う話をたっくさんした。