本職でボランティア  5月8日最終回

東日本大震災ボランティア活動記録

「本職でボランティア最終回」 



これは2011年3〜5月に、宮城県石巻市の災害現場でお会いした「過去の災害救援からの経験豊富なボランティア」「さまざまな本職を活かして、被災者に喜ばれる技能・職能ボランティア」のみなさんの活動を、「こんな活動もあるんだ、こんな活動をしている人もいるんだ」ということを多くの方に知ってもらいたいと、大急ぎで本一冊分ぐらいの分量を書き、筆者の関係者にお配りしたものです。とにかく一日でも早く多くの人が読み、被災地にさまざまなプロが駆けつけてくれればという思いで書いたため、内容には筆者の独断や偏見、認識不足や事実誤認も含まれていることをお詫びいたします。また内容はあくまでも二年近く前の当時の状況に基づいて書かれたもので、現状とはずいぶん離れています。当時の様子を知っていただくためにも、ほぼ原文のまま掲載いたします。

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5月8日 復興のたい焼き

今日で最終日、当面しばらくは来られないだろう。送れるものは宅急便で送り返す。


復興支援協議会のホームページ用に、整体マッサージボランティア募集、理容美容ボランティア募集の文章を書く。大筋できあがったので、湊小学校〜湊中学校という活動開始時の活動場所を久しぶりに見に行く。確かに片づいて来ているが、その間に一ヶ月かかっていることを考えると、決して早いとは言えない。


石巻港にかかる日和大橋を渡り、壊滅の南浜町。がれきの中に車を停めて徒歩で日和山に上がる、市街を見おろす。石ノ森萬画館のある旧北上川の河口に近い中州、南側三分の一が水没している。地盤沈下の状況を目の当たりにする。がれきの原になっている南浜一帯。しっかりと目に焼き付ける。来るたびにどれだけ復興したかが分かるように。


専修大学から市街に入ろうとすると、必ず通るのが開北橋。橋の南側(市街側)に「うす皮たい焼き」の店がある。この店も石巻入りした初日に、泥をかぶった店を見て「たい焼きの店が復活できる日なんていつになるんだ」と思った記憶がある。ところが、このお店、予想に反して復活は早かった。4月の23日に最初の石巻遠征から帰るその日に開いているのを見つけた。GWの第二次遠征で、私の中での「復興のシンボル」になったたい焼きをいつか食べようと思っていた。今日を逃せばチャンスはない。


まとめ買いして、整体チームミーティングと、復興支援協議会でみんなに配った。「僕の復興のシンボルです」と。復興支援協議会では、実は多くの部隊があのたい焼き屋には目をつけていたことが分かった。ただし、朝、出動していく時は店の前を通るけどたぶんまだ開いていなくて、夕方帰る時にはお店は開いているけれど、車線の反対側になるから車を停めて買いにいかないと行けない。知っているけど食べたことがない幻のたい焼きと化していたのだった。


会議終了後、石巻災害復興支援協議会の事務局の中川政治さんとHPの打ち合わせ。初めてゆっくり話をする。中川さんは海外のNGOハイチ地震の支援をしていた人で、震災時にはフィジーで廃棄物削減に取り組んでいた。フィジーの方には申し訳ないが、自分の国が未曾有の大災害に襲われているのに、海外で活動している場合じゃないと緊急帰国。実は家族は反対だったことが分かった。原発が爆発し、放射能被害がどれほど広がるか分からなかったころでもあり「家族の中でお前だけが放射能の心配のないところにいるのだから、無理に帰って来るな」と。


しかし、まずは地元の京都に帰った。そして青年会議所が物資を集めて被災地に届けている活動に合流し東北へ。石巻で物資配りをしていた時に専修大学のこの団体連絡会の活動に出会い、中川さんの人となりと経歴などを聞いた伊藤会長がひと言「お前はここにおれ」。それ以来事務局メインスタッフとして今日に至るのだという。
 

ほんとうに唐突だけど、この原稿はここで終わる。なんせ現地は今も活動が続き、状況は変わり続けているから、それを追いかけていると終わらなくなってしまう。最初は整体チームの活動を知ってもらおう、同業の方が現地に向かうきっかけになればと思って書き始めた。途中からこれからの支援は、本業ボランティアだと感じ、そちらの原稿をどんどん追加していった。最初から順番に書いたのではなく、鮮明に思い出したことを書いて、ジクソーパズルを埋めるように書いていったので、説明が前後するところなどもあると思う。書き出すとほんとうに鮮やかにその日のその場面の景色が甦ってくるのに驚いた。それだけ鮮烈な体験だったのだ。


この書で、どれだけ本業ボランティア促進に役立つものになれたかは疑問だが、読者が「私にもできることがあるのかもしれない」と感じていただけえれば嬉しい。


この一冊の感想を寄せていただければ著者として嬉しいが、それよりもこの本をきっかけに石巻でなくてもいい、東北のどこかの町にボランティアに行った感想の方が100倍嬉しい。

最後に、ここに紹介して帰宅した後の生活について追加しておきたい。本屋に入っても興味を引く本の種類がものすごく変わった。睡眠時間が短くなった。本業の整体の施術時間が短くなり、前と同じ時間ならはるかに深いところまで調整できるようになった。新しく受ける人のリピート率が飛躍的に上がった。活動中は無収入になったのだけれど、帰ってからは前以上に人が来るようになった。やろうと思ったことに手をつけることが早くなった。この本を書いてしまったということが何よりの証明だ。


被災地での活動はもちろん大変だ。だけど、それを上回って手にするものが多いことを、帰宅されてから実感されることと思う。


被災地の一日も早い復興を願います。願うだけでなくやれることをやります。また紙面に登場して頂いたすべての方、現地でともに活動したすべての方にお礼申し上げます。また現地でお会いしましょう。


ありがとうございました。  


 
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整体チーム 2011年5月末までの活動記録
(人数は復興支援協議会での報告記録を合計したもの
 場所名は報告書記載名の転記であり、通称など正確でないものを含むかもしれません)


活動場所
石巻市
■市街地
渡波公民館、渡波保健所、石巻市図書館、石巻市立女子高、中央公民館、鹿妻小学校、
グループホーム愛慈、飯野川中学校、大街道小学校、渡波中学校、洞源院、住吉中学校、石巻商業高校、開北中学校、湊中学校、門脇中学校、渡波小学校、
石巻中学校、稲井公民館、蛇田中学校、蛇田小学校、専修大学4号館、住吉小学校、開北小学校、ほたる、釜小学校、湊小学校、青葉中学校、山下中学校、ビッグバン、祥心会、明友館、生活支援センター、渡波神社
■河南地区
河南体育センター、広渕小学校、勤労体育センター、農村環境改善センター、中津川第一小学校、桃生小学校、石巻北高校、遊楽館、津山第一小学校
■北上地区
小室大室、北上中学校、相川子育て支援センター、大指林業支援センター、北上災害対策本部、はまぎく、小泊、長観寺、白浜壮、追分温泉
雄勝地区
クリーンセンター、森林公園、明神児童遊園、水浜保育所雄勝支所、原地区
■牡鹿地区
東浜小学校、狐崎漁村センター、富貴浦会館、大原生活センター、寄磯小学校、荻浜中学校、十八成老人いこいの家、清優館、大原中学校、寄磯小学校

東松島市
東松島市コミュニティセンター、松島第4小学校、宮戸小学校、松島町品井沼駅前農業改善センター、室浜公民館、牛網センター、室浜市民センター、東松島市小野市民センター、奥松島縄文村

☆女川町
女川第一小学校、女川第三小学校、牛川運動公園、町立第一保育所、海仙閣、女川原発体育館、勤労青少年センター、スローライフ、女川対策本部

南三陸町
志津川中学校、南三陸ベイサイドアリーナ、港会館、志津川小学校

気仙沼市
気仙沼社会福祉協議会、唐桑小学校、鮪立老人憩いの家、中井公民館、唐桑さんさん館、高松苑、松原苑、気仙沼中学校、市民会館、新月中学校、すこやか、興福寺、鶴ヶ浦生活文化センター、くるみ会館、大島開発総合開発センター、明海荘、半造レストハウス、民宿なぎさ

陸前高田市
陸前高田災害対策本部、下矢作コミュニティセンター、高寿園、松原苑、米崎中学校、和方公民館、松峯公民館、旧自然休暇村、モビリア、慈恩寺、田端公民館、広田小学校、六ヶ浦公民館、長洞公民館、鈴木旅館、華蔵寺

☆その他
個人宅十数軒、田代島、名取、大船渡の数箇所

以上、施術総数 5400人

これには、夜な夜な行われていた社会福祉協議会・ボランティアセンター職員や、南境生活支援センターの長期ボランティアケアは含まれていない。活動場所から直接帰ったメンバーの報告漏れの活動記録も含まれていない。それらを合計すると6000人前後に達するものと思われる。



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