359話 人には言えない快適入浴法

長女のあさちゃんが、実家に泊まりにいっていたため、筆者も水曜日以後、今朝までずっと実家どまり。あさなと一緒に車で帰宅して5日ぶりの和歌山の我が家。

連日の「世界水泳」視聴のため、寝不足を押しての帰宅。昼寝をして復活。家族で先日カヌーの帰りに行った「野半の里 蔵の湯」に温泉に入りに出かける。

行きがけは自宅から1時間強。

温泉に浸る。気持ちがいい。その気持ちよさをより積極的に味わおうとつとめる。その一は「温泉になりきる」である。温泉の中に自分の体が浸っている。浸って気持ちのいいものであれば、温泉化してしまえばもっと気持ちいいはずである。

目を閉じ、積極的に「温泉化」する。みずからが湯になりきるのである。温泉化しようとすると、とたんにからだがあたたまる。温泉の湯温になってしまう。気持ちはいいが、夏場にやるのにはかなり暑い。

もうひとつ好きな入り方がある。それは「温泉に浮かぶ」である。仰向けで大きく息を吸い込んで止め、そのまま浮かぶのである。しかしこれも、夏場にやるのにはかなり暑い。おすすめは「サウナ」または「ゆっくりと温泉であたたまった後」に「水風呂に浮かぶ」である。

浮かびながら息を吐くと、体積が減少するため沈んでしまう。息を止めたままで浮かぶのである。浮かびながら手足の力を可能な限り抜く。ゆらゆらと波に漂う浮き輪付きのくらげのようになる。風呂の中というのも、案外と流れがあるものである。ふうわりふうわりと流れていく。そられに一切逆らわないのが「温泉 水風呂浮かび」の醍醐味である。

これはものすごく気持ちいいものである。脳の血流も一気に低下するのか思考停止状態となる。音はすべて水を通した神秘の音となる。たまの息継ぎの音が「シュー」とダースベイダーの呼吸音のようでもある。また泡のおとがごぼごぼと聞こえる。おそらくは体内深く刻み込まれた母親の子宮内でぷかぷか浮いたいたころの記憶につながるのであろうか。独特の「思考停止」「無念無想」状態となり、ほとんど呼吸のことを忘れる。

これは自宅のちいさな浴槽ではむずかしい。浅くて広い水風呂があれば最高である。

しかし、温泉でやるにも問題がある。私は全然問題ではないのであるが、見た人には気持ち悪いだろうなあと思われることである。だから同じ浴槽に誰かがいる場合はやらない。夕方前の銭湯でひとけの無い場合などにやってきた。

この方法は「完全に浮かびきる」ことによってその本質的な気持ちよさと出会うことができる。湯舟のふちに頭などを乗せていたのでは、その気持ちよさはありえない。死体のごとくゆらゆらと揺られ、浮かんでこそいいのである。気持ちの良さのあまり白目をむいていることも予想される。ますます「土左衛門」化しているものと思われる。無人だと思って入ってきた人が、白目を向いてうかぶ男を見て、死体だと勘違いして当局に通報などされても困る。

インターネットの反響というもの、影響力というものは予測できない。この話の読者から尾ひれがついて、全国でブームになったらどうしようかと思う。湯布院で、有馬で、草津で、湯治客がいっせいに浮かび出したら気持ち悪いと思う。