444話 矛盾

前の日記で、「昨年自分と今年の自分」は違う、と書いた。

もちろん、筆者にはときおり阿部寛が憑依したり、林家喜久蔵師匠が憑依したりすることもあるのだが、(ドラゴン桜笑点か を参照のこと)ここでいう「昨年の自分と違う今年の自分」はそういう意味ではない。(って書くまでもないね)


記憶や人格としては確かに連続しているけれど、感受性というのか、性格というのか、考え方というか、何かが違う。まったく同じ自分であれば同じ問題を同じように憤り、またいつもと同じ将来を空想するであろうが、同じ問題がまったく気にならなくなり、以前の自分では決して考えないであろうことを空想している。

そういう意味では別の人間である。

同じ材料を同じ方法で調理すれば同じ料理ができあがるのであるが、同じ調理をしたはずなのができあがる料理が違うということは、材料が変わったということになる。


虚実の技法のように「見つけた!つかんだ!」と思う数々の技術にしても、確立してみると、これは○年ほど前に河野先生から学んだことのリニューアルかな、などと思うこともある。また、できあがった後数週間の後に、冷静な目で分析すると(できあがって直後は興奮しているので)数年前にすでに身に付いていた技術をいくつか組み合わせればとっくに完成していてもよかったものじゃないか、と思うこともある。


材料としては、とっくの昔に仕込んだものじゃないか、ということが多いということである。


そうやって蔵の中・引き出しの中にしまい込んだもののなかから、いくつかのものが浮上して組み合わさって「これこれ、これだ!」というものの形になっている。


それは、電車の中で唐突にアイデアが浮かぶと言うようなことも多い。歩いていて突然まとまる、ということも多い。しかし、その材料が集まってくる段階ではかならず人とのかかわりがあって、まとまったものが浮上してくるのは確かである。


縦軸に3つほどの要素があり、横軸に4つほどの要素がある。それらを組み合わせると12の技術になり、そのうちの1つ2つに「おおお、」というものがある。


縦軸の3つの要素を眺めれば、同じようなものはあと7つぐらいは思い浮かぶ。横軸も同じ。
そうやって縦横10ずつの要素にすれば、100のマス目になってもれなく可能性が網羅され、より見落としの確率は減少し、発見の確率は多くなるのだが、そういう科学的効率的な方法は取っていない。


おもしろくないからである。



自分の中にそういう「未使用」の要素がたくさんあるのが実感される。


それを引き出すのが多くは人との出会いである。書物を通しての人というものも含まれる。ネットもある。老師・内田樹先生と同士山上亮氏などには即発されることが目白押しである。


今目の前にいる人にぴったりのものが、自分の中からずるずると引き出されて来るのが楽しい。時々自分の講座で話していることをクラスを中断させてもらってメモすることがある。


「お前ってなんていいことを言うんだ」


と感動して、これは是非とも今書き留めておかないと二度とは浮かばないかもしれない、と思ってメモったりする。

などと書くと、非常に学術的な格調の高い話のように思える。たった今までは。


しかし、唐突に本質的にはもっと低い次元の話のような気がした。それは10行ほど前の


『 おもしろくないからである。 』


という断定的口調を眺めていたらそう思った。


目の前に人がいない状況で、科学的に可能性を追求するスタンスが取れない私。おもしろいかおもしろくないかが行動の基準になっている私。目の前の人によって話す内容が変動する私。


それらの要素を並べてみると、その背景に悲しいかな、幼少時から高校生までの18年間を関西で過ごしたということが重要なファクターとして見え隠れしてきた。


筆者の同世代の尼崎・大阪市内で育った男性に問う。あなた方の学生時代は、やや非行少年系に偏れば腕力・戦闘力が、そちらへ向かわない場合は「笑わせ力」が、少年達の勝負所ではなかったか。

どれだけ「ウケる」かがおのれの全存在をかけた重要事項ではなかったか。好きな女の子に告白する勇気がない場合、その女の子にどれだけウケる冗談を言えたかで自分を慰めていなかったか?


相手から引き出されて変わりゆく私というのは、ようするにこの関西少年たちの「ウケるかどうか」に賭ける行動パターンと情熱と根っこが同じだというな気がしてきた。

う〜ん。


「変わっていく自分」というテーマを書き出したら、「変わらない自分」という結論が出てしまったじゃないか。


しかし、この相矛盾するふたつの要素が、堂々と混在するということがいいのである。(強引だなあ。断定しちゃった)

上の方で書いた

『自分の中に「未使用」の要素がたくさんあるのが実感される。』

というふうにちゃんと書いてあるんだもの。


このあい矛盾する二つの「自分説」は、要するに「未使用の要素」なのだ。