482話 父の日のプレゼントに思う

先日の日曜日は父の日。


家族からプレゼントが贈られた。


その数日前の夕方の関西地方限定のテレビの情報番組で

「最近の父の日、プレゼント事情。百貨店ではこんなプレゼントが売れています」

というような特集があり、「我が父にはこれしかない!」

という「それ」が特集されており、筆者をのぞいた家族全員衆議の上、即決したという。



何あろう、


越中ふんどし】である。


エプロンのように、前にはらりと布地が垂れ下がる男性用伝統的和風下着のあれである。



川崎のぼるさんの漫画「田舎っぺ大将」で主人公「風大左エ門(ってこんな漢字だったかしら)が身につけていたあれである。


しかも無地ではない。幼児用のゆかたの柄のようで、かわいらしい3色のトンボが乱舞すると言うデザインである。なんとカラフルなふんどしであろう。


単純明快なまことわかりやすい性格の親父ではあるけれど、そのパーソナリティを正しく家族から認識されているというのは、まこと心地の良いものである。正しい性格認識の上に立って、大事に思われているということを言い換えれば、愛されているということになろうかと思う。


筆者、今後の人生において、初秋の夕方に赤とんぼを見るたびに家族の愛を思いだすであろう。


「とんぼのめがねはなんとかめがね♪」と童謡を聴くたびに、幸福感に包まれるであろう。



ところで、筆者、このふんどしで実は三代目である。


20歳のころ、歩いて旅をしていた。日本海沿いの国道を旅していた。夏の徒歩旅行であるから、体力はすこぶる消耗し、気力体力ともにへろへろであった。へろへろと峠を登っていくと、上り詰めたところにあった空き地のような一角に「いかがわしい自動販売機」があった。


「大人のオモチャ」


などと看板が出ていた。


「300円」などと、まことリーズナブルな価格が表示されていた。


血気盛ん、性欲横溢かつ純情可憐で健康な彼女のいない20歳、かつ思考能力のない本能のみで歩くへろへろ状態である。


徒歩による旅をすると、頭の中には3つのことしかなくなる。「次はいつ休もう」「次はなにを食おう」「女の子のこと」。これだけである。高邁な理想を掲げ、哲学するなんてことは談じてない。食欲・性欲・睡眠欲。シンプルにこの3つだけになる。


人気のない峠の自動販売機である。


筆者、思わず300円を放り込んだのであった。


すると・・・・。


キャラメルの箱ぐらいで、しかももっと「安物のうすっぺらいボール紙の箱」が出てきた。


この中に、異性と秘め事に挑みたる際などに補助グッズとして使用するならば、経験貧困テクニック皆無で血気盛ん、性欲横溢かつ純情可憐で健康な彼女のいない20歳であっても、お相手なさる異性の方を歓喜の世界へといざなう「大人の小道具」が鎮座されているのである。


それにしても、なんか箱が小さいような。それに重量感がまったくない。


この重量と「異性と秘め事に挑みたる際に補助グッズとして使用するならば・・・・以下同文」がまったく釣り合わない。


箱を開けると、小さく折り畳んだ薄っぺらい「さらしの白布」が出てきた。広げると幅30センチ、長さ50センチほどのやはりただの白布だった。よく見ると、その端に、ひもというのもはばかられるぐらいのちんけなひもがついていた。


生まれて初めて生で見る「越中ふんどし」であった。


たしかに、本格使用には耐えられないであろうちんけなつくりであるから「おもちゃ」と言っても過言ではない。サイズは子ども用には大きすぎようから「大人の」と言ってもいい。そういう意味では「大人のオモチャ」である。


むろん「異性と秘め事に挑みたる際に補助グッズとして使用するならば・・・・」という使用法は、こちらが勝手にそう決めただけであるから、販売者側の責任を問うわけにはいかない。


なんか、だまされたような気もするが、「日本海側国道の、人っ子一人いない峠の上の自動販売機」であるから、文句のつけようもない。まことに見事な手腕である。完全犯罪と言ってもいい。


筆者は悪徳詐欺まがい自動販売機に、左ローキック2発と右ハイキック1発を叩き込むと、また歩き出したのであった。


買った以上は使わないのも損なので、そのふんどしを数回はいてみた。後にたらした長布をまたをくぐらせてベルト状に前に結んだ腰ひもの内側に通して前に垂らす、という構造は、股間をまことにゆるやかにつつみつつ、かつ、小用など使用に際してはまこと取り出しやすく、かつ前垂れによって、「なに」が横っちょからだらしなくはみ出るというような様は、視界がカットされるという、まことに優れた設計になっているということを筆者は知った。


が、

腰ひもがまことにちんけな「糸よりはましだけど、キャラメル大の箱に収めるために、それこそマスクの耳にかけるためのゴムぐらいの太さしかないひもにしました」という極悪非道な構造のため、締めると痛いし、すぐに切れてしまった。それが初代ふんどしであった。


2年後の冬。


正月に着物を着るのに、せっかくだからふんどしにしよう、と筆者は大学のある島根県松江市一畑百貨店呉服売り場に行った。ワコールやBVD社製のふんどしがあるとは思えないので、この選択は考えられる中でのベストであったが、昭和60年頃にふんどしを買いにくる客は皆無であったらしい。


呉服売り場に勤めて35年という面もちの売り場責任者らしきおばばは


「ありません」


と言う。高齢者の愛好者はみな白布を買って、手作りしているのだという。経験貧困テクニック皆無で血気盛ん、性欲横溢かつ純情可憐で健康な彼女のいない22歳は、手縫いのふんどし作りというような器用な真似はできない。筋金入りの不器用である(家庭科でぞうきんを縫った話参照)


しかし、おばばは満面の笑みのもとに続けて言った。


「若い店員の針の稽古になりますから、縫わせますからさらしを買ってください」


という。


「すぐにはできませんから、2〜3日待ってくださいね」

という。


かくして、2〜3日後に

島根県松江市一畑百貨店呉服売り場謹製
 世界にたった一つの呉服売り場若い店員手縫いのふんどし】


をさらし代のみの値段で手に入れたのだった。お正月前のことだった。


そして、その後


「この最高の肌触りのふんどしを縫ってくれた娘に会いたい」と密かに呉服売り場に出かけては遠く見守り、呉服売り場の店員にアタックしては、縫子を捜し、ついに探し当てて結ばれるというような「冬のドナタ」というような展開はまったくなかった。



ということで、30年前には、詐欺まがい自動販売機か、呉服売り場で手縫いでないと手に入らなかったふんどしが、今は百貨店の「父の日のプレゼントコーナー」で「トンボのプリントつき、カラフルデザイン」なものまで簡単に手に入る時代なのである。


感慨深いのである。(何が)