484話 他人の荷物

久々に和歌山の休日。


朝の六時に強風のためにぞわ〜、ぞわ〜と風吹き音が鳴り響き、のんびりと寝てられなくなった「すずな」がきゃんきゃんと騒ぐので、和歌山城まで散歩に連れて行く。


すずちゃんのお散歩は、実にほぼ一ヶ月ぶりである。6月の休みは会報作成で明け暮れた。昨日発送は終わって、肩の荷がおりた今日だったので、予定外早朝散歩も「これもまた休日よ!」と楽しく出かける。


先月ブログの更新がほとんどなかったのは、この会報の影響が大きい。影響が大きいとは微妙な言い回しである。「会報のために時間がなかった」とは言い切れない。


チラシなども含めて総ページ数26ページ。届いた原稿を貼り付けるだけのページも多いので、さほどの作業量ではない。


今回は、編集作業開始直前に、突然ワープロソフトのデータが消えるというハプニングで少々げんなりとスタートしたのであるが、その後も遅々として進まない。スタートでつまづき、中盤でスピードが上がらず、後半で息切れし、ラストスパートで足がもつれるというレース展開であった。


こういうことを隔月で繰り返していたのではいけない。一年の半分は不幸になってしまうじゃないか、などとめでたい7月1日に考えていたのである。そして寝しなに、ふと本棚から内田樹老師の「私の身体は頭がいい」を取り出しはらはらと読む・・・と、おおさすが内田老師。ちゃんと回答が記されていた。


多くの人々は、他人の荷物は重たく、自分の荷物は軽いと思っている。
それは違う。
逆である。
自分の荷物は重たいが、他人の荷物は軽い。
私がそう言っているのではない。レヴィ=ストロースがそう言っているのである。
「人間は自分の望むものを他人に与えることによってしか手に入れることができない」
だから、楽になりたかったら、自分の荷物を放り出して、他人の荷物を担げばいいのである。

=略=

自分の荷物の重みは、その人が「他人の荷物を変わって担ぐ」という決断をした瞬間に消えるのである。だが、自分の荷物の重さに囚われている人は、そのことになかなか気づかない。
それだけが、重さから解放される方法なのに。