507話 坂本龍馬ゆかりの鞆の湊へ

今を去ること100数十年前。

坂本龍馬率いる海援隊はついに蒸気船を手に入れた。名を、「物事の始め」との意をくんで「いろは丸」と名付け、瀬戸内を航海していたのであった。


ある霧の夜、いろは丸の前に島影かと見まがう大きな影が。


と、すさまじい衝撃。


なんといろは丸は、紀州藩の大型船・明光丸に衝突され、沈没の憂き目にあう。転んでもたたでは起きないというか、沈んでもたたでは浮かばない坂本龍馬徳川御三家の大藩、紀州藩を相手にけんかを売った。


「この沈没事故、泣き寝入りなどもっての他じゃきに。万国公法を持って裁くぜよ」


と最寄りの湊に逗留し、ついには紀州藩から莫大な賠償金をせしめる、というくだりは、司馬遼太郎先生の「龍馬が行く」第7巻に詳しいが、その龍馬が逗留した湊というのが、潮待ち・風待ちの万葉の時代からの歴史があるの鞆の浦である。


で・・・この鞆の浦の「龍馬が逗留した古民家」というのを再生するぞ、というプロジェクトがかの地では進んでいるらしい。


かかる情報は関西摘み菜料理界のドン、平谷けいこ先生ならびに「町おこしならぬ町残しのスペシャリスト」ためさんよりもたらされた。


このお二人は坂本龍馬とは関係がないのであるが、岡山県笠岡市の「干拓して農地にしようとしたけど、結局はだだっぴろい原っぱになってしまったところをなんとかしようよ」という活動の一環としてかの地に招かれ、その招いて下さった方の関係で、上記の「坂本龍馬ゆかりの家、再生プロジェクト」とつながりができたのである。


干拓問題とも跡地利用にもなんの関係もないけれども、坂本龍馬が好きだ、というだけの実にすばらしい理由で、ご両者協議の上、筆者にかかる情報がもたらされ、今週末かの地に筆者もひっついていく、という運びになったのである。


坂本龍馬とは対立した側の紀州藩のお膝元・和歌山城下に住まい、つい昨日勝海舟翁の寓居跡に詣でた筆者であるが、今週末には龍馬ゆかりの家を見に行ける、という展開に興奮さめやらぬ筆者なのである。


頭のなかに明治維新の風が吹く昨今なのである。すばらしい9月末なのである。


小豆島のMさん、い〜だろ〜!