527話 悟り 1

高野山合宿にて筆者は身体操作上の重要な気づきを2点得ることができた。

一つは「すり足」についてであり、今一つは「能における足運びである」

なにゆえ日本の伝統芸能武芸などですり足がその基本となり、また能におけるすり足では、すり出す足の足首を微妙に返すか、という一点である。

筆者がその武術的身体獲得のために、すり足を基本的必須稽古項目の一つとしてまなび、土曜の朝の「整体武術」のクラスでもそれを必須カリキュラムの一つとして毎回稽古している。

そして「すり足によって腰椎4番に焦点の当たる日本人的な骨盤操作による身体を得るのだよ」とか「等速度運動をからだにしみこませるのです」とか「中心軸というものを創り上げなさい」などと分かったようなことをのたまうのである。

それらは確かに嘘ではない。ほんとである。

しかし、高野山の宿坊「常喜院」の長い廊下をあるいて講習会場である大広間に行ったり、お風呂に行ったり、部屋に帰ったりを繰り返していて、【なにゆえ日本の伝統芸能・武芸・殿中作法・身体操作はすり足なのか】という根本的大問題に忽然と得た回答というのは、いささか違う角度で筆者に舞い降りてきた。

これは、なだたる日本文化・武芸の名人達人も表だっては言及していない真理である。むろん道統の秘伝として、その宗家だけに秘中の秘として一子相伝・口伝のもとに伝えられた、ということはあり得るである。

それは簡潔・シンプルにして、揺るぎない必然性をもって筆者に迫ってきたのである。

この身体操作学会上の一大発見とも言える我が回答を見聞するにあたって、深夜パソコンの前でポテチなどをばりばりかみ砕きながら、眠気覚ましのリポビタンDなどをぐびぐびとするような不敬な態度で読まれることは、読者諸兄にとって一生の後悔を生むであろう。

願わくば斎戒沐浴、禊ぎをすませ、香をを焚きしめ、沈思黙考、静寂のもとに、一言一句をその臓腑に叩き込んでいたできたいものである。



高野山宿坊の長い板張りの廊下を歩む筆者に、忽然と舞い降りてきたその真理を今こそ語ろう。


【なにゆえ日本の伝統芸能・武芸・殿中作法・身体操作はすり足なのか】




「廊下をどたばた歩くとうるさいから」