528話 悟り2

「なにゆえすり足なのか問題」はさらに続く。


お寺なんだし、ふだんすり足だって稽古しているんだからすり足で歩こう、と思ったわけではない。いつもの調子で少し急いで歩いたらドッタン、バッタンとうるさい。うるさいから、うるさくないように歩こうとしたら、すり足気味で歩いたらちょうど良かった、ということである。

しかし、結果的に二つを歩き比べてみると、音のうるさい歩き方の時には、廊下の板が「痛い、痛い」とでも言っているように非常に足の裏に反発を感じ、すり足の場合は廊下の板の弾力を感じてその『たわみ』に乗って進んでいく、という感触なのである。

かっこよく言えば「どう歩けばいいかは、廊下の羽目板が教えてくれる」ということなのであった。

そう悟ってみると、そういうことはとっくにこの道の先達が述べていることに気づく。「剣や杖を振ろうとしては技にならず、剣の動きにつき従う自分というようなものができた時、剣はその真の技の形を現す」というような意味合いのことを、我が(って勝手に決めた)内田老師もブログの中で語られている。また甲野善紀先生だったと思うが、(違うかな)お盆にお茶を入れて運ぶ時、『お茶を運ぼうと工夫してもぽちゃぽちゃ揺れるのが、お茶についていくようにすると安定する』というすばらしい解説を読んだことがある。(土曜日に稽古したやつですよ、S澤さん、Y口くん)

廊下のすり足をもう少し『実用的』な観点から考えると、どたばたと歩くと、足の触れている板が必要以上にたわむ。物理学の作用反作用の法則で、衝撃に釣り合うだけの反発の振動が生まれ、板の一部が圧縮され、たわみ、余分に振動する。その振動は板を曲げ、あるいは釘をゆるめるということにつながっていく。

そうすると「うるさいし、廊下も傷むのが早くなるんだから、すり足しなさい」

というのが、案外そのすり足となった必然性のバックバーンではないか、という仮説である。そういう「精神衛生上と経済上」の問題からのすり足であるけれど、おそらくそれだけではなかったと思う。そこには「踏まれる板がどう感じているのか」を感じられる感受性のようなものがあったと思うのである。


理由は実に実用的であったとしても、その際の「踏まれる板がどう感じているのか」を感じることの重要性を強く感じる。これはおそらくスポーツ的なトレーニングにはきわめて生まれにくい感性ではないだろうか。陸上で「いかに強く地面を蹴るか」をコーチは考え抜くであろうが、「そんなに強く蹴ったら地面だって痛いわなあ」ということは考えないであろう。

例えば水泳で「いかに強く水をかくか」ということから生まれる泳法の可能性よりも、どうやれば水が機嫌良くその隙間に泳ぎ手を吸い込み続けてくれるか、というのを追求した方が、より魚に近い泳ぎ方が生まれそうに思うのである。