530話 悟り 3

ところで、もう一つ、能のすり足はなにゆえ足先を一歩ずつ浮かすのかが判った!という話が残っていた。


これは高野山合宿の朝の30分から40分、正座で参加した勤行の際に悟ったのである。勤行の後、法話があり、ご住職は「それでは祭壇奥のご本尊にご参拝下さい」と言われた。(参拝は神様だっけ、仏様の場合はなんだったかな)


筆者も仕事上正座をする時間は、現代社会を生きる方々の中ではかなり長い方ではある。お陰で読経後にしびれが切れて動けないということはなかったが、やはり足首などはまともには動かない。最前列に座っていたため、筆者が行かなければ後の方々は行けない。そこでとっさに能のすり足をして一歩ずつ足首を返し、アキレス腱を伸ばしながら歩くと、あれれ、歩けるじゃないの。

能というのは神事のようなものらしい。一度演じ始めると槍が降ろうが何が降ろうが辞めることは許されないのだそうだ。そこで能舞台では、演者の後に『後見人』といって、ただ座っているだけの役の人を配する。例えば演者が舞台から落下して気絶したとすると、そこでその後見人が何事もなかったごとくその瞬間からとって変わって代役を演じるのだそうである。


ここで仮説である。後見人は、そういうじっと静止状態からいついかなる場合でもすばやく演者にとって変わらなければならない。「ちょっと待っておくんなはれ。今しびれてうごけまへんねん」というわけにはいかない。そういう構造になっている能のなかで、「ずっと座っていても、醜態をさらさずに動ける」という技法が内在していることは不思議ではない。そうである。足首を返す歩法は、しびれ取りの秘法であったのである、というのが筆者の仮説である。


この足首返しについては、数年前大阪道場にて能の身体操作や技法について講座をお願いした梅若基徳先生にも直接おたずねしたことがあるが「分からない」というのがお答えであった。


なんせ3歳から舞台に上がるというのが能楽の家の実情である。そのお稽古方法というのも、あれこれ教えないでたださせる。そして違ったらぴしりと叩かれる。なぜ叩かれたかを一心に考え、正しくなっていたら叩かれない。伝統芸能の家というのは、こういう方法で理屈でなく理論でなく、頭でっかちでなくただ身体に骨の髄まで叩き込む(文字通り)ように稽古されたという。こういう訓練を経て得た身体であり、動きであるから少々座ったからといってしびれるなんてことは皆目ないようである。


足首返しというのは緊急脱出装置のようなものかもしれない。限りなく緊急事態など起こらないように稽古をされてこられたプロフェッショナルにはそのありがたみがわからず(だっておそらく一生使わないんだから)、門外漢が案外的を得ているのでは、というのが筆者の勝手な憶測である。

したがってこのブログを読んだ読者の皆様は、能楽の歩みに関して「あの足首の返しは、しびれ取りの秘法やで」などとおっしゃらない方が賢明である。