564話 ライブノート

塚口駅に映画のポスターが貼ってあった。


デスノート


「このノートに名前を書かれたものは死ぬ」


というようなコピーが書いてある。


確か続編じゃなかったかな。ということは、前編が好評でそこそこの観客動員を果たし、映画をごらんになった方々の背筋を凍らせ、後編制作の企画が映画会社の会議を通ったということである。


「このノートに名前を書かれたものは死ぬ」


なんてノートに名前を書かれたぞ、と告げられ、自分よりも前に書かれた方々が非業の死を遂げるのを次々目の当たりにする、なんてシチュエーションになったら、それは怖い。おっそろしく怖い。


しかし・・・、よ〜く考えてみると、(私の発想はよ〜っく考えてみてもこの程度である)私はすでにデスノートに住所氏名年齢職業氏素性、記載されているのであった。


筆者のみならず、向こう三軒両隣・お隣さんもお向かいさんも、とんとんトンカラリンの隣組ご一同様、親戚縁者・一族郎党、先輩後輩、上司部下同僚、ことごとく記載されていることは間違いないのである。


ビデオのごとく、時間軸を高速早送りにして、150年ほども先を再生すれば、今、地上に存在している全ての方々はことごとくお亡くなりになっているのである。


ほんとのところ、この逆のノートがあったら怖い。


「ライブ ノート」


「このノートに名前が書かれたものは、ずぇ〜ったい死なない!」


踏んでも蹴っても、青酸カリ飲んでも、首を吊っても、絶食しても、死なない。


メンソレ塗っても、ムヒを塗っても、赤チン塗っても、ヨーチン塗っても、引っ張っても、しごいても死なない。(このフレーズの作者は高校の同級生S浜君である)


100年たっても200年たっても、どんなに退屈しても終わりが来ない。これは怖い。



終わりあらばこそ、その価値が生じるのである。


すぐに実現しないから、物事は楽しいのである。


「私ごのみのべっぴんさん!」と鼻の下を伸ばした瞬間に、その方がやおら近づいてきて、しなだれかかってくるという現象が日常になったら、私は女性に関する興味を失い、異性を拒否し、人生の楽しみを奪われてしまうであろう。


いくら使ってもも中身が減らない『うちでの小槌』のような財布があったら、買い物の楽しみは消失してしまうであろう。


そうか、そうだったのか。


「私ごのみのべっぴんさん!」と鼻の下を伸ばしても、そういう方とお知り合いになる機会など皆無で、さほど使った覚えもないのに、中のお札が蒸発するかのごとく気づくと薄くなっている財布を持っている私は、実はとっても幸せだったんだ。


う〜ん、気づかなかった。