632話 奥様は人魚!?

実家での整体の日。この日は予約がまばらであったので、空き時間に母親が見ているテレビ・ABCの「ムーブ」を一緒に見ていた。


お笑いの「なす・中西」が「森永の工場に取材に行き、金のエンゼル、銀のエンゼルで有名な森永チョコボールがいかなる工程で製造されるか」というコーナーを見ていた時のことである。


なす・なかにしが、工場前の「記念撮影用、チョコボールのデザインの鳥のキャラクター看板の鳥の顔の部分にくりぬかれた穴から顔を出して・・・という映像があった。


岡山なら桃太郎の顔がくりぬかれていて、そこから顔を出す、というよく観光地にある記念撮影用のあれである。


それを見ていた時、幼少の記憶が忽然としてよみがえり、同時に幼き日に「不思議だな」と思っていたある『謎』が氷解したのであった。


それは、まだカラー写真もないころの我が家のアルバムの話である、それをおそらく幼稚園児か、それ以前ぐらいの年齢の筆者が見ていたら、なんと母が人魚になってセクシーにほほえんでいる写真があったのである。

うちの母親は人魚だったの!????

母上が人魚だったとはついぞ知らなかった。いつ人間になったんだろう。また人魚になっちゃうんだろうか?などと論理的に分析した記憶はない。ただ


「あ、うちの母ちゃん、人魚になってる」と思っただけである。


今の今まで忘れていたが、あの「母親 人魚化写真」は、きっとどこかの観光地で、母親が記念写真に、そこにあった人魚ボードから顔を出した写真だったんだ。


しかし、その幼き日の記憶をたどれば、筆者の目に(幼児期のね)見えた母は、もろはだ脱いだ肩のラインはなまめかしくつややかで、胸はふっくらと盛り上がり、そして魚の部分はぬめぬめと「文句なしに水から上がった人魚よ」状態として見ていた。


木のボードにペンキで書かれた平坦な子供だましの絵には見えなかった。


「子供だまし」という言葉で表現される場合、その偽装工作は二流・三流・下級品という意味で使われるが、子どもである筆者は見事にだまされている、ということは一流の子供だましであったのか。


しかし、その後の人生経験からして、観光地のそういうボードに、CGと見まがうばかりの精巧な筆致の超写実的な記念写真ボードというのは見たことがないから、やはり子供だましのレベルであったのであろう。


しかし、筆者が見た人魚はまぎれもなくなまめかしい人魚であった。すくなくとも幼少期の筆者は「そういうふうにものを見ていた」ということは間違いない。


さて、そこから推定40年近い年月がたっているけれど、果たして筆者は、どこまでものごとをありのままに見ることができるようになっているのであろうか。


それとも、「こう見えるのが正しい」という像そのものが、ないのかも知れない。


つまり誰もが、同じものを見ても、自分の観たいように、好きなように見ているってことである。それがいわゆる、「あばたもえくぼ」で、「母ちゃんも人魚」である。


見るもの、聞くものが災厄をもたらし、つまらないものに見えるよりは、美しく、楽しそうに見える、ということの方が、能力としては好ましいと思える。