653話 最初のボタンの掛け違え

最近、まだまだ駆け出しレベルながらも「心身の統一」とか「統一体」といったものが体感できる機会が増えてくると、それらに対する認識というものが変化してくる。


こういったものだろうな、とまったくできなかったころに予想していたものとは、ずいぶんと違った景色が見えてくる。


たとえば「統一できたからだ」というものは、非常にオープンである。まわりの環境に開かれている。まわりの環境と調和・融合・共鳴しないと、それ(統一)はないんだ、というのが現在の実感である。


まわりの環境と調和・融合・共鳴のない「それ」は「思いこみ」の世界の中での「硬直」であろう。


心身統一とか、無念無想とかいうと、自分の中に内向していくイメージがあったが、少しやれるようになってみると、それは見込み違いであった。確かに内向していくのであるが、それは同時に外側に開かれることが同時に起こるようでないと「使い物にならない」という感覚をともなう。


たとえば、そういう「精神統一の行」というと、「滝行」なんてのが頭に浮かぶ。厳寒の中、歯を食いしばって滝に立ち向かって苦行に耐えると何か霊力のようなものが身に付いて・・・なんて想像は、やったことがないとそういうイメージを持ちかねない。


しかしながら、滝の身になってみれば景色は違う。


滝行は、こちらからすれば「滝に打たれる」であるが、滝にしてみれば「股ぐらに頭を突っ込まれる」という行為である。


私が滝なら、白装束かなんかで、歯を食いしばって、耐えて、我慢して「股ぐらに頭を突っ込んでくる人間」に霊力を与えたりはしない。(与えられるかどうかしらないけど)


股ぐらでは上品でないから「ふところに飛び込んでくる」でもいい。恐怖や我慢や思いこみでガチガチに固まっている人間には、何も手渡すことはできない、と滝の方でも困っていると思う。


しかし、硬直・思いこみ・決めつけを取り去り、ゆるんで、オープンになり、みずから滝と一体化しよう、滝の真意を感じ取ろうとする人間に対しては、なにがしかのものを手渡すことは可能な気がするし、しかし、すでにオープンになっている人間に対しては、どんどん良きものが流れ込んでいるのだから、ことさら渡さないでもいいとも言える。


「そないに、自分の中に凝り固まっていてもあきまへんで」とのあきらめを得るために、一見厳しく、非日常的なシチュエーションとして滝を選び、固まっている自分がオープンにならざるを得ないところまで持ち込む、というのであれば、滝というのはなかなかドラマチックに何かを与えてくれそうな気がする。



というような思考をたどっていってふと思いついたのが神社参りである。


神様のところに言ってお願い事をする、というのは日常よく目にする風景であるが、自分が神様だったとしたら、「やめてよ」と言いたくなる気がする。


だって、初詣なんか多いところでは何十万人でしょ。それだけの人間の大半が自分に都合のいいこと、私利私欲・わがまま勝手な願いをかなえてくれって言ってくるのである。私が物わかりのいい使命感に満ちた神様で、


よし、「じゃあ全員の願いを叶えよう!」と決意したとする。


まずは全ての願いをきちんと受け止めなければならない。名乗りもしない参拝者の氏素性か特徴など取りあえず分かる部分で個人を特定し、参拝者名簿と願い事リストを作成せねばならないだろう。


それらを失わないように、エクセルかなんかに入力しなくっちゃ。


中には初詣後すぐに実現しないとかなったことにならない願い事や(3日後の競馬で当ててくれとか)一ヶ月後の入試で受かりたいとかという願いは、時期的に急がなければならない。そういう「緊急願い事」や「期間限定願い事」が時季はずれにならないようにするためには、やはり全ての願いごとを整理しなければならない。


でも何十万人なんだから、入力が終わるころには、次の年の初詣が来ちゃうかも知れない。


誠実にひとつひとつの願いごとを聞き届けようというのは、神様といえども、非常に難しいことだということが分かる。


だから、神様にお願いするっていうのは、きっと最初のところで間違っているんだと思う。というようなことを朝の講座でしゃべっていたら、今日、筆者の道場に初参加の「巫女舞いを勉強してます」というY本さんが「神様にはお願い事をしてはいけないと教わりました」と言われた。


そうでしょ、そうでしょ。


「神様にやってもらおう」、というのがおそらく最初のボタンの掛け違いなのである。


そのかわりに、神社に行ったら、その神様の周波数に合わせればいいのではないかと考えている。その神様の周波数をキャッチした参拝者が、それぞれで行動すればいいのである。


放送局が飛ばす電波の量は一定である。しかし、受信機であるラジオがいくら増えても、電波が薄くなって聞き取りにくくなる、ということは聞いたことがない。この方式であれば何百万人の人が参拝に行っても、困らない。神様がエクセルを前に願い事リストをせっせと入力する必要もない。


私が神様なら、きっと放送局方式を採用すると思う。