699話 痴呆と便秘 2

人間は、たとえば消化器のルートは「食道」「胃」「小腸」と分かれていると思っているけれど、体の方はそう思っているだろうか。


「食道」「胃」と分けて表現されると、まったく違った部品が集まってつくられている機械のように思ってしまいそうになる。しかし、別々のパーツを寄せ集めてつくったわけでなく、口から肛門までの一本の管を、人間の頭が分けてそう呼んでいるに過ぎない、とも言える。


分けて考えると、「胃の調子が悪くなると、口の端が荒れたり割れたり、口内炎ができたりって不思議ね」ということになる。


しかし、人間全体だって押しピンを踏んづけたら顔がゆがんだり、しかめたり、それこそ「痛い!」って叫んだりする。痛いのは足の裏なんだから、ゆがんだり、しかめたり、叫んだりするのは足の裏だけでいいようなものなのに、全身で痛いを表現する。


一カ所の問題は、全体の問題だ、と少なくともからだの方はそう思っているということである。もしくはもともと分けては考えていない、ということである。


前記の「認知症の問題行動」の話でも、医者か研究者、その認知症の専門家と呼ばれる人が脳との関連のみを見ているから、かえって手の打ちようがなくなるという例であろう。


三好さんの例の介護者は、生活を通してそのおばあちゃん全体を見たから、人間として当たり前の生理現象である排便というのが十全に行われていない時と「問題行動」との関連が見つかったのであろう。


さらに見方を広げれば、病人と健康な人というのを分けていることそのものが、もしかしたら病人を増やし、治癒の可能性を下げている可能性さえ危惧される。自分ではありがたいことに一切ご縁がないが、病院というところは人の見舞いなどで行くと非常に疲れる。



健康な人が行って非常に疲れるところで、病気の人が元気になる可能性と、健康な人が行って、より元気になってしまうようなところで、病気の人が回復する可能性はどちらが高いだろうか。


環境省と呼ばれているお役所は、(その前は環境庁ね)、発足時には「公害省にしよっか」という案があったらしい。あまりにも露骨なのでやめになった、という経緯があったらしい。この場合は、環境省が良かったかどうかというのは予測しがたいが、少なくとも「公害省」というネーミングであったならば、その後の活動内容や方針に現在までにずいぶんと違った展開を見せていたと思われる。


思い切って病院と医者という名称を廃止してはどうか、と思うのである。


健康度増進センターとか治癒力増進師なんてのはどうだろう。


病院の少なくとも内装は木造・板張りの山の別荘のようなしつらえにして、待合室には薪ストーブや暖炉があるっていうのはどうだろう。


検査機械なども、外側はウッディにして、高級なオーディオのような外見にしてみて、無味乾燥なデジタル表示は極力目立たないようにしてはどうだろう。


さらには、その人の悪いとこばっかり探す検査だけをするのはやめて、その人の平均値よりも優れて健康なところを徹底的に探す検査機械というのはどうだろう。


このガンの人は、骨密度は若い、肌も若い。髪の毛のキューティクルも多い。血液のさらさら度も高い。お肌も平均よりは5歳分は若い。虫歯も少ない。これらの総合力で、ガンが「あ、俺場違いなところにいるみたい、あ、お呼びでない、これまった失礼しました」と植木等のように退散する、というような展開を本気で研究したっていいと思うのだ。