746話 話がかみ合わない

午前中に和歌山城に犬のお散歩兼尺八の練習に出かけた。


ひょんなことから、脳梗塞の後遺症で歩行が不自由で、「今日、ほんっとにひっさしぶりに走る練習をした」という男性とお話する。


お願いして体を少し観せてもらう。筋肉がものすごくカチカチに固まっている。麻痺している方だけでなくって、それ以外の箇所もとにかくカチカチになっている。


お話を聞くと、とにかく鍛えている。


「これは病気で、ぜったいに良くならんのや。だから鍛えるしかない。スポーツクラブでスクワット言うの?あれやっている」

「鍛えているから、筋肉硬いやろう」

「家にマッサージ機があるから、それで筋肉をほぐしているけど」

「テレビで観て、太極拳っていうの?あれを(形だけ)真似している」


伝えたいことが伝えられないもどかしさに、悶々とした筆者であった。しかし、後ほどよく考えてみれば、この方は「自主的に熱心にリハビリに励み、引きこもらず筋肉の衰えを防ごうとしている、とても優秀な脳梗塞の事後を過ごされている方」なのである。


今大阪道場に来られているA山さんは、脳内出血で10年。少しずつ機能回復をしてこられている。この和歌山のランニングリハビリ中の方よりも麻痺の程度は重い。その不自由な手足であるが、「麻痺している以外の箇所に感じる強い筋肉のストレス」を氣の手当でゆるめていくと、この10年でかつて無いレベルで「一時的な機能回復」(よーするに動きやすいということ)が顔を出す。


ふだんはいつも同じ程度で動きづらいというわけではなく、脈絡無く「調子がいいときと動きづらい時がある」とのことである。


一回目の調整の後、「その調子のいい時間の割合が増えたようだ」とのことで、しばらく続けてみるとおっしゃっている。


筆者がふだん観ている、そういった障害のない方でも、首、肩、腕、腰、足など、本来のからだの設計図に予定されているなめらかで大きい本来の可動域を持っている方なんていない(に等しい)


みなさん、どっかこっか閊えている。そして、氣のバランスを調整した箇所以外の動きが突然回復するというのは、ざらに起こっている。そして、本来の動きを取り戻す箇所が増えるほど、つられて動きが良くなるというのも、通例である。


だから、A山さんの場合でも、頭や首の緊張をゆるめると、「おおおおお!」と言いたくなるような指が動きが出たりする。

言うことを効かない足首に触れず、すねや太ももの氣の閊えを取ると「立ち方が変わった!立ちやすい」なんてこともあった。


それは「悪いところを治す」「部分的に鍛える」という発想とは対極のところにある。つながりを良くする、体の各部分が協力しやすくする条件を整えると言ってもいいと思う。


「麻痺によって動きにくいのだ。それ以外は健常なんだ」

ではなく

「麻痺も含めて、氣や動きの閊えたところはたくさんあるから、それらを協力体制の取りやすいところにもっていくと、麻痺だと思っていた動きも、案外回復したりする」

というようなことは、和歌山のランニングマンにはまったく伝わらなかった。そうだよなあ。それが世間の常識だよなあ。


脳性麻痺のなおちゃんだって、最初は足首の固定装具をつけていたのが、4〜5回の調整で装具は取れ、今ではあぐらはかくは、正座はするわ、それを楽しそうにニコニコやっている。過去10年以上の泊まり込みも含めてのリハビリでは取れなかったのに。(装具がね)麻痺とは関係ない全身の調整の結果である。


もちろん、麻痺や障害に対して筆者の見聞しているケースは圧倒的に少ない。たまたまうまくいったケースを知っているだけかもしれない。うまくいかなかったケースは忘れてしまっている可能性も大きい。(筆者はそういう性格である)


故障した箇所を治す、というのは医者の仕事だし、麻痺したところの機能回復を指導するというのは理学療法士さんのお仕事だから(Y澤さん、実習がんばってね)、筆者の手を出す範囲ではない。機能回復をしたのも、全身調整の結果であって、必ずしも回復を保証するものでもない。


障害の有無にかかわらず、誰がやっても(受けても)健康度が上がるもの、全身の協力度合いが増していくことをこれからもこだわっていくだろう。


自分自身がやっても納得いく、やりたいってものを人様にもやりたいのである。