768話 しあわせである
朝から家族は出払っている。(当たり前だ。平日だ)
すずちゃんの散歩をずるずると後伸ばしにして、中場利一の「岸和田のカオルちゃん」を読了。
- 作者: 中場利一
- 出版社/メーカー: 講談社
- 発売日: 2002/01/16
- メディア: 文庫
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数年前は本を買うこづかいもなかったが、最近はためらいなく(文庫本なら)買えるようになった。
幸せである。
それにしても、岸和田がそない物騒な街とは知らなかった。筆者20年近く前には、岸和田の駅前のヨガ教室に数年間担当として派遣されていた。
岸和田の朝昼のクラスが三時に終わった後、夜のクラスは沿線の高石だったので、昼のクラス後には岸和田駅近辺で「やきうどん定食」の遅い昼食を取るのが常であったが、あのかいわいに「カオルちゃん」が徘徊していたのに遭遇しなかったのは幸いだと心から思う。
ちなみに、だんじりの時期、市内の学校は全て休校となる(らしい)のであるが、その文化センターは全国チェーン(たぶん)のため、休講のルールが岸和田のローカルルールとは違ったため、だんじりの時期にも開講されたが、朝昼合わせておばあちゃんが一人来ただけで、後は全員お休みであった。
すずなと一緒に遅い散歩。
お城に行き、新緑が濃くなった伏虎山の緑を芝生越しに眺めつつ、すずちゃんを近くの立木につなぎ、尺八を吹く。
しあわせである。
帰宅し、キッチンタイマーで「それぞれの処理に何分かかるかチャレンジ」をしながら、家事・片づけ・細かいお仕事などをばっさばっさと片づける。
しあわせである。
帰宅したひろきと、受験勉強に関して意見交換ならびにいくつかの質問と提案などを行う。
ひろきは
「うざってぇんだよ、だせ〜ぇんだよ。ほっとけよ」
などとはまったく言わない。
しあわせである。
家内が大阪に用事で出かけ、帰宅が遅くなるので、食事の準備も行う。
魚のひもの(といっても和歌山で買う干物はうまい)を焼く、というプランで、それに一二品つければ完成というはずだったのが、コンロの魚焼きが故障で、焼けない。
やむなく、そのあたりにころがっている野菜で天ぷらを作る。(みそ汁もつくったけど)
たまねぎ、なす、さつまいもの三種盛りである。
先に、みそ汁、かぼちゃの炊いたやつなどを出しておいて、揚げたてを運ぶ。食材はありふれているが、揚げたて、それにY女子短大のA井先生にお土産に頂いた「瀬戸内のも塩」をかけて食べる。
むちゃくちゃにうまい。
しあわせである。
家族もまた、うまい、おいしいと雄叫びを上げながら食べる。
幸せである。
夜10時。すでに轟沈しているまいちん以外の三人が次々に筆者の前に来て、正座礼をし、整体を受ける。
三人ともが「ああ、軽い、軽い」と言いつつ、首を連獅子のように回し、肩・腕を風車のように回し、腰をフラフープのように回して後、正座で最敬礼をする。
日本全国の思春期の子どもに、正座で礼を受け、心からの(^-^)で感謝されるお父さんはいったい何人おられるのであろうか。さらにちゃんと「お父さんおやすみ」と声をかけて、子どもたちが部屋に引っ込む。
幸せである。
NHKのニュースか何かで「児童・生徒の親の理不尽な学校への要求に学校が参っている」というテーマを取り上げていた。
我が子の写っている写真が少ないから、卒業アルバムを作り直せという親。子どもの担任は、こちらで決めさせろと要求する親。
内田老師が説かれるように、生まれた時から消費することしか知らない世代には、学校というところも、「こちらがお客さんでしょ」という意識に見えるのであろうか。
やはり、筆者はお客さん(会員)を選び、氣の合う人、好きな人だけを看ていく現在の形態で良かったと思う。その精神的ストレスにおいて学校の先生とは雲泥の差である。ありがたい。まあ、なんとかやれているのだから、本当にありがたい。
【我が子の写りが少ないから、卒業アルバムを作り直せという親。子どもの担任は、こちらで決めさせろと要求する親】には、筆者が今感じているしあわせは感じられないだろうなあと思う