831話 先達はやはり先達だ

もともと12歳の時に、沖正弘先生の本でヨガにであってから34年。


いまだヨガは分からない。といっても、正統な伝承の中身を追求するというような指向性はないので、あたりまえと言えば当たり前だ。


ヨガ(ハタヨガ)を実行する際の注意事項というようなものがある。

○息を詰めない 深い呼吸で行う
○動作は、はずみ、反動を使わないでゆっくりとうごく
○空腹時に行う
○終了時には全身の力を抜いて、しかばねのポーズを取る


なんて文言が並ぶ。


ヨガの指導員をしているころ、ストレッチがエアロビクスとセットで流行りだしていた。かつての「ラジオ体操」や「柔軟体操」と「ヨガ」は明らかなに異質な動きで、特異性を持っていたから「こういう不思議なポーズや難しいポーズ」の向こうには、「何かが得られる」と思わせる要素があった。


しかしながら、ストレッチが大量生産でどこもかしこもでも行われるようになると、ヨガの特異性というのは、消え去ってしまった。


それは、指導職にいる自分自身にも降りかかってくる。ヨガとストレッチとどこが違うねん。


ヨガが様々な効果を歌うなら、ストレッチを実践する人も同じ効果が得られるはずである。角度を変えると、ヨガで得られると思っていた効果や成果というのものは、ストレッチを続けることでえられるものとたいして変わらない、という事にもなる。


まあ、そういう不満があって、整体や武術の方に進んで「動きというのは、どういうものか」とか「動きの訓練で、本当に満足のゆく効果が得られるにはいかに動けばいいのか」というようなことを追いかけてきたのである。


○息を詰めない 深い呼吸で行う
○動作は、はずみ、反動を使わないでゆっくりとうごく
○空腹時に行う
○終了時には全身の力を抜いて、しかばねのポーズを取る


を守ったからと言って、「だから何なの」という程度の差しか感じられない。少なくとも、動きを「頭で考えて体に指令を出す」というサイクルでやっている限りは、「自分の頭が考え出す程度の効果・成果」までしか行かないということである。


ここ一年ほどで「頭を休めて、体に氣の輪郭をかけることによって、裡から出る動きにまかせる」ことで、ようやく「頭で考えて、体に指令を出す」次元から離れつつある。


今現在感じていることは、上記のヨガ実践の注意事項というのは、それを守ってやるというのではなく、自然にそうなってしまう時には、正しい可能性が高い、ということである。守ってやっているからといって、正しくはない、ということである。

つまり、


○息を詰めてやるなんて起こるはずのない、深い充実した統一感に包まれ、気が付くとおっそろしく深い呼吸になってしまうような取り組み方である。

ということで


○動作は、はずみ、反動を使うなんて雑なことをしてしまうと、たちまち味わえないような上質の味わいがあり、その濃密さゆえ、自然にその速度になってしまう。

ということで


○満腹時にやるなんてもったいない。空腹時を選んでやりたくなるぐらい気持ち良さを損なうことに対して、慎重になってしまうような質である


ということで、それらの効果が体の隅々にまで行き渡った実習後には


○全身の力が完全に抜けてしまい、すぐに日常に(もちろん戻れないことはないのであるが)戻すのがもったいなく、またその外見上の動きは停止していても、裡の動きが活発に動き出していることが明瞭に感じられる


というようなものになっておれば、より正しい可能性は高い、とこういうふうにとらえている。そしておおむねそういうふうになってきている。


そういう視点で、ヨガの先達の著作を当たってみたら、こういう実習上の注意があった。


アイアンガー導師による「ハタヨガの神髄」より


脳:アサナ(ポーズ=対位法=動禅)は身体だけで行い、脳は受け身にとどまって、油断なく身体を観察すべきである。脳までもいっしょになってアサナを行ってしまうと、みずからの間違いを観察することができなくなる。


およそ500ページほどの本であり、上記の表記はわずか二行である。


筆者がうれしがって、何日にも何回にもわたって書いている中身が、アイアンガー師にかかると、わずか2行である。筆者がしきりに力説することも、師にかかれば「どうしてそのような当たり前のことを、口から泡を飛ばして強弁する必用があるのかね」ということかもしれない。


しかし、その2行が指す意味を体で感じられるようになっているということが、なかなか嬉しかったのも確かである。いま目指しつつある方向が、どうやら間違っていない可能性が少し高くなった、といううれしさである。


そして、またこの2行とまったく同じ事を、先日S川さんから「最近、こういうことを考えてますねん」とメールでもらっていた。


「やっている人」と方向性が重なると、おお、いいぞ!と思うのである。