834話 特殊なものに期待するのはやめよう

朝の武術の時間。


催眠術のデモンストレーションで、仰向けの人を二つのイスの間に橋のように架けるというデモンストレーションがある。頭とかかとの部分だけ(もしかしたら肩とかかとだったかもしれない)でまっすぐになる、というやつである。


人を統一体に誘導すると、別に催眠状態にならなくても、上記の二点を支えるだけで、まっすぐに持ち上がってしまうというのが、案外楽にできるということがわかり、講座内で実習。首とかかとだけを持って、まっすぐに持ち上げる訳だが、体を反り返らせて、背筋をキンキンに締めて、というわけでもなく、青筋も立たず、普通に会話できて「とっても気持ちがいい!」という次第。


そのまま足を先に着地させて、上半身を起こしてそのまま立ち姿勢まで誘導すると、「いまだかつて経験したことのない充実した地に足がついた感覚」(M安氏 談)になり、ほっておくとそのまま5分でも10分でも立っている。


実は、この『きおつけ』のまま水平に持ち上がるというのは、「そんなことは難しい」と思いこんでいるだけで、たいした事はないのであるが、ふっと氣の誘導で、それをできる方向に誘導しないと、できない人はけっこう多いようである。


というぐあいに、凄そうに見えるけれど、実は簡単なことや、やっぱり我ながら凄いなあ、というようなことまで色々でできるようになってきた。そういうもので受講される方々を煙に巻く日々である。


瞬間的に相手の腕相撲を強くしたり、弱くしたり、相手の突きを届くようにしたり、届かないようにしたり、相手の方の体を柔らかくしたり、硬くしたり。


数年前の筆者がそういう様を目の当たりにしたならば、たちまち舞い上がって「こういうことができるようにさえなれば!!」と期待に胸をふくらませたであろう。


しかし、実際にできるようになってみると(ってったってまだまだレベル低いんですが)「こういうことができるようにさえなれば・・・」の「・・・」で想像したようなことは起こらない。人格見識が格段に上がったわけでもない。


言いたいことがよくわかんないね。


そういう「非日常的なこと」ができるからといって、日常は変わらないということである。大事なことは日々の「当たり前のこと」の質がいい方向に変化することで、非日常的なことがたくさん現れることではないのであった。


日常の質を上げようとすると、それは当たり前のことを当たり前にやり続けることなのであり、今までできなかったことができるようになった身体そのものの質の変化はあるのだけれど、大事なのは、その質の体でがっぷりと日常に取り組むことであると、感じているのであった。


昔、「ああいうことができるようになれば!!」と思った地点に立ってみると、それは単なるスタートラインだったということが分かった、ということがいいたかったんだ。回りくどい文章だったなあ。