924話 自分探し 1

筋金入りの不調の方に、首肩腕腰などを動かして、調子を見てもらうと、さすが筋金入りだけあって、みごとに「動きのつかえている箇所の苦痛を最大限に感じ取れるように」動かすのに長けている。


そこ以外の「すでに十分ななめらかさの甦った部分との連動」というのは、決して使わない。そこで手を添えて


「ここも動きまんがな、ここもなめらかでっせ」


と誘導すると、喜びの雄叫びがあがる。


実にもったいない話である。金庫もしくは銀行もしくは郵便貯金に残高が増えているのに、小銭しか入っていない財布を開けてはため息をついているようなものである。


小さい秋みつけた、の項で書いたが、不調箇所や不平不満不足文句うらみつらみ悪口雑言箇所に意識を集めることによって、不調が改善することはない。


自然の理にかなったところ、快調、快適なところとの関係性をつくり、その快調快適なところに主導してもらった方がはるかに改善成績は良い。


さらには、不調不健康だと「決めつけてる」ものの中にある、バランス回復のための快を見つけること、という表現もできる。


体に合わないものを食べると、筆者は数十分後に吐く。意識してそうするというのではなく、自然にそうなる。吐くというと調子が悪いものと思いこむかもしれないが、余分なものがオーバーフローするだけであるから、悪いものであるわけがない。そのまま取り込む方が体にとっては迷惑な話である。吐き気は不快であるが、吐くのは不快ではない。便意は不快であるが排泄は爽快であるのと同じである。


吐き終わり、出し終わった後は爽快である。


「自分探しの旅」なんて言葉がある。


そういうものに魅力を感じる心情というのは、現在に不平不満不足文句欠乏感不充実感があるからであると予想される。


快適快調満足充実な状態で「こんなのは僕じゃない。本当の僕はもっと他にあるはずだ!」と見知らぬ街へさすらうというのは考えにくい。


しかし、知らない街にいったとたん「ジャジャーン、おめでとうございます。さあこれが本当のあなたですよ」と提示されると考えるのには無理がある。まあ旅はいいものなので大いに出かけたいところであるが、それは初めて土地や人との出会いを味わいに行くのがいいように思う。


自分探しに旅を使うのは、お金もかかるし、時間もかかるし、効果はまったく保証されない。


一方で、自分の中、特に動きや体感の「快適さ探し」は実にリーズナブルである。費用も時間もかからないし、効果は保証する。自分探しには、快適な「部分探し」が手っ取り早い。