925話 自分探しの旅 追伸

自分探しに旅を使い、また色々なセミナーなどを使うのは、今の自分の生活のパターンには本当の自分がいない、と思っているからであろうと予想できる。


「非日常な時間と空間」に身を置けば、新しい自分、ホントの自分に出会えるように思うのであろう。


筆者の体感からすると少々違う。どこへ行っても自分は自分である。あまり変わりない。旅する機会は前よりも減ったが、あちこち出かけるのは好きである。しかし、それはそこでしか味わえないものを味わいに行くのである。そういう気分だと別に遠くなくっても楽しい。ホームセンターコーナンに行くのに、大浦街道の方からぐるっとまわって別の道を通るだけでも楽しい。



さらに筆者が楽しいのは、いつもと同じことをやり、いつもと同じ景色を見、いつもと同じ道を歩いているにもかかわらず、違って感じる場合である。同じ自分であるのだけれど、新しい感受性が生まれてくる楽しみである。そういう新たな感動を下支えしているのは「快適な部分探し」である。


非日常的な旅と言えば、筆者二十歳のおりに、北海道最北端から九州最南端まで徒歩で野宿旅行をした。7月1日に歩き始めて10月12日に到着した。これぐらい「非日常的なものが日常」ということはない。これぐらい旅らしい旅はない。これぐらい「自分を見つめるのに良い機会」はない。ように思うかも知れない。


大間違いである。


一人黙々と歩く旅で人は何を考え、何を見つけるのか。


「後何キロ歩いたら○○につくなあ」「何時には○○に着くなあ」


「今日の昼飯は何を食おうかな」


「休もうかなあ、歩こうかなあ」

「あ〜、涼しそうな待合室やなあ。寝たいなあ」



せいぜいこんなもんである。距離計算の他は、食欲と睡眠(休息)の欲求である。


後はひらたく、かつ正直にいうとHなこと。


うっ、本当の私って「寝たい、食いたい、Hしたい」「食欲 性欲 睡眠欲」


こう書くと身も蓋もないが、「ありのままの自分」ってこういうことである。


しかし、それを「惰眠をむさぼり、だらだらと暴飲暴食し、酒池肉林におぼれる(筆者お酒は飲めないから酒池は無理だけど)」と解釈するから低レベルの本能のママと見える。


短時間でぐっすりとねむって爽快にめざめて力まない気力が充実し、食べて美味しく、空腹もまた快適で、性も含めて自分以外の他者と充実した交流と共鳴と一体化を感じて日々送るということである。


そういう他者との交流のある日常の中で、日々新たな自分を感じて味わうのである。とても忙しい。自分探しの旅に出るひまなんてないのである。