958話 寒い・・・かな

7時10分ごろに和歌山に帰る。駅前には海から紀ノ川沿いの川風がびゅーびゅーと吹き、落ち葉が舞い「いよいよ冬到来」という景色である。


駅前の信号待ちの人は誰もが背中を丸め、襟元を合わせ、急ぎ足で帰路に着く。


「寒い」 かな。

ふと、そう思った。条件反射的に身を縮めているけれど、ぽわっとオープンにしてみた。ら、


寒くない。

その寒風は、身体をオープンにすると、筆者には何もダメージを与えていない。


ごめんね。紀ノ川の川風さん。さきほどは悪者扱いして。


では、さきほどの「錯覚寒さ」は何か。寒さ(不快)を感じているのは、筆者の反応である。反射である。ある気温よりも低いとき、反射的に身を縮める。丸くなる。その「恐れおののくような体勢」が「不快」(寒い)と錯覚させるのである。


反射的に縮み、守るような、「こもる」ような。


ある「不快かな?」という刺激があった時に、本当はそうではないのに、その「不快を感じた時に無意識に取る体勢」が現れてしまうと、感覚が「不快を増幅して感じる。ようである。


刺激はあくまで刺激。受け取り方は自分次第ということがあるようである。


我が身の感覚を大事にしろと常日頃書き、道場ではそう繰り返し口にしているけれど、自分の感覚など信用するな、とも言う筆者である。


感覚が正常であれば、それは大事にするに足るのである。すばらしい叡智を含んで、我が身をよりよきところにいざなってくれるのである。感覚(と、その元になる体の状況)がとちくるっていると、悪くもないものを不幸と感じるのである。


正常な感覚を持った人、つまり幸せになる人は何をしても幸せになり、不幸を感じる人は何をしても不幸になるのである。


だったら、まともな体にした方がいい。