995話 クリスマスだ、トゥギャザーしようぜ

24日

クリスマスである。

昼間は、大掃除である。ウッド風デッキの50数本ある長さ1メートルの板と板の間にある8ミリのすき間に、もわもわと詰まりつつある「柴犬すずなの毛」を「割り箸の一本でかき出しつつ素早く掃除機で吸い取るべし」という家内からの指令を受け、上記業務に従事する。


この毛をほったらかしにしていくと、そこに「犬の毛が大量にたまる」ということを予想しないで作られたバルコニーの排水孔が詰まり、恐ろしいことになる、ということが予想されている。したがって、大掃除の中ではなかなか重要な位置を占めている。


4〜5センチ幅の1メートルのデッキ板×50本だから、ようするに50メートルの細い溝に割り箸を突っ込むわけである。


しかし、たんねんにやると秒速2センチぐらいしか進まない。一時間ほどかかって終了。



その後あさちゃんと共闘し、片方が室内から新聞紙を広げて網戸に押しつけ、片方が外側から掃除機で網戸のほこりを吸い取る作戦を実施する。


さらに駐車場の落ち葉掃き。


などなど夕方までおそうじ。あさちんはクリスマスケーキを作り出す。まいちんは、夜のクリスマス会(といっても、家族で手巻き寿司を食い、手作りケーキを食うだけである)の「台本」をこしらえ、司会進行の練習をしている。


平和である。日本の年末である。


しあわせである。


そういえば、昨夜、あさちんとまいちんは、お義父さんとともに、「ちょっとそのあたり周辺一帯にその見事さが知れ渡っている存在」である義父の知人の「クリスマスイルミネーション満艦飾の家」を見に行っていた。


「ほんとに節操のない国だわい」という心情の浮かぶ、筆者であった。


つい先月、「はろうぃん」なる「こどもたちが、ご近所の家にずかずかと押しかけて、キャンディをねだる」という海の向こうの習俗があることを知ったまいちんは、友人たちと通学路途中にいきなり見ず知らずの家のドアを「キャンディ頂戴!」と叩いて回ったが、ただの一軒も「いきなり知らない子どもたちが来て、お菓子をねだる」ということの意味が分かった家人はおられなかったという。


クリスマスイルミネーションなど、一体どのような意味があってやるのだ、「意味を持つ伝統の門松やら注連飾り(しめかざり)を飾りもしないで」、などと頭に浮かぶ。そんなにアメリカの真似が好きなのかい、ええい、何とか言え、なんて文言が脳裏に浮かぶ。


と、そこに内田老師のお姿・お言葉が浮かんできた。


正確に言うなら、11月13日の内田老師のブログの内容である。(以下太字が内田老師)



漢字は表意文字(イデオグラム)である。ひらかなやアルファベットは表音文字(フォノグラム)である。
表意文字表音文字の組み合わせで言語を構築するのは漢字の周辺文化圏の特徴である。

そこでは、ひさしくローカルな表音記号でシンタックス(連辞)を形成して、そこに任意の外来語をはめこむという混淆的な言語をつくってきた。
日本もそうだし、朝鮮半島もそうだし、インドシナもそうである。

日本のように漢字という「表意文字」とかたかなひらがなのような「表音文字」を混ぜて使っている国は激減しているそうだ。お隣韓国は「ハングル」に移行し、ベトナムでも表音文字への切り替えた結果、史跡に残された文字が「ある年齢以下は読めない」世代が現れているそうだ。


そして、日本の「表意文字=漢字」混じりの言語体系が日常としていることは


日本語を読み書きするということは、脳内部位の二箇所を同時に活動させることである。

こんなことをするのは今ではもう日本人だけである。
日本人の識字率は近世以来一貫して世界最高レベルにある。
これはすぐれた教育システムの成果であるとされているが、私はむしろ日本語の構造的特質のせいではないかと思う。
だって、日本人は言語運用に際して脳内の二箇所を同時に使うのである。
欧米人が一人でやっている仕事を二人がかりでやっているようなものである。


ということになるらしい。


そうか。


たしかに「日本の伝統」とか「和風」だとか思っているものの中で、非常に高率で「海外からもたらされたものを、いつの間にか取り込んでしまい」、さらに「本家よりも上手に使いこなしたりして同一化してしまっている例」が非常にたくさんある。


つまり、「日本的」とか「和風」というのは、別に数寄屋造りとか、着物や和装小物とかいったものではなく、本質的には「なんでんかんでんごった煮にして取り込める能力」のことであるということか。


「日本風にできあがったもの」を継承していくことと、「なんでもかんでも取り込める能力が廃れないようにしていくこと」を比較した場合、はたしてどちらが「生存前略」上、有効であろうか。


筆者はどちらかと言うと「いわゆる日本的なもの」を「表面をなぞるだけではない形で」「本質をつかみ取って体得し」「次世代へ伝えたい」というスタンスをとっているが、そこに「なんでもかんでも取り込める能力が廃れないようにしていくこと」をどうブレンドしていくか、ということは重要な視点であると自覚した。


時代劇に出てくる風景で、武家の子どもが、書見台漢籍を載せて「子、曰わく」とやっているのは、きわめて「和風」な学習風景に見えるが、よく考えれば外国の教科書を音読しているのである。なんだ、NOVAじゃないか。


しかし、その発音が中国語ではなく、きっちり日本語の発音に変換してしまっているあたりが日本なのだろうなあ。


司馬遼太郎の「坂の上の雲」を読むと、日露戦争時の「乃木大将」が、203高地を陥とし、旅順要塞攻略成功、勝利の後「漢詩」を作るという場面がある。


この頃の軍の中枢に君臨している世代、つまり明治維新の前に教育を受けた「武士」のたしなみとして、そういうものがあったのだ。


大日本帝国陸軍大将が、「いくさ」の後に詩を吟じるなんていうと「いかにも日本の侍」という風景に見えるが、その実「海外文学」をやっているわけである。


そうである、英語(アメリカ)と漢籍(中国)の差はあれど、明治以前の知識階級は、要するにみな「ルー大柴」だったのだ。


トゥギャザーしようぜ。