997話 正解が分からない問題がいい問題

一ヶ月か二ヶ月前に、S川さんが「チューニングラインって、左右均等でしょうかね?」ときらりと目を光らせて投げかけてきた。


これは「疑問文」ではない。


「へっへっへ、だんな(注 S川さんはこのような下品な笑い方はしないが、まあ演出ってことで)、あっしはどうも【左右不均等】の証拠に迫りつつありまっせ。だんなは、どうなんですかねえ、ひっひっひ」


という「やさしい挑戦状」である。


さて、そこから数ヶ月。


おかげさまで。


そうやって投げかけられたものは、非常に素敵な「消化不良状態」となって全身を駆けめぐり、胎内でしっかりと育ち、忘れたころに(忘れてないけど)産み落とされるのである。


先週あたりから加速度的に向上したものと思われる体感によってもたらされた最新の「筆者の身体観」では

●チューニングラインはまったく左右均等ではない。こうなっている・・・
●身体は明確に左右の役割分担をしている

ということをさらに深めていったら

●人の「氣」は自転していてる
●人は左右両方向ともには捻ってはいない。捻れるのは片側だけである。
●体癖の「型」の名前には、かなり意味深い付け方がされている
●体癖の奇数種と偶数種を、何で分けるか・・・
●ということになると、チューニングラインと、体癖対応部位はこうなる
●ということを前提にすると、目の左右の運動の差違として・・・
●・・・は、・・・・


といったことがぞろぞろと体感できてきた。



筆者は、「武術・整体・体育関係者」の「技術文献」を最近ではほどんど読まない。どうにも気になるものは、将来読もうと思った時に手に入らないと困ると思って購入するが、そういう気になる本ほど読まない。


今研究中のものに「かぶりそうなもの」や、その「すぐ隣に位置するような内容」だと、読んでも二分(にぶではなくって「にふん」ね)ぐらいしか読まない。


読むことによって、より正解、もしくは効果的な方法を「認識・記憶」することにはなる。数年がかりの回り道を通らないですむことはあるだろう。


しかし、筆者は別に学者ではない。ゆえに、第一発見者の名誉だとかは関係ない。実践者であるから「それを知っているかどうか」は特に問題ではなく「それが出来るか、体現できるか」ということが大事なのである。(まだまだ駆け出しの若僧ですが)


さらに筆者の(仕事上の)価値・値打ちは、筆者の指導やチューニングを「受ける道場の会員のみなさんにとってどうか?」という面で決まる。


そして、その筆者の価値・値打ちというものは、筆者が「そもそも人間というのはどういう構造なのだ、原理なのだ、仕組みなのだ?」「元気になるとはどういうことだ?」「治るというのはいかなることだ?」「どうすることが最もよいのだ?」ということに、どれだけ深く興味・関心・意欲・気力を注ぎ込んでいるか、注ぎ込めるか、ということで決まると思っている。


ゆえに、道場における筆者と会員の皆さまの関係において、筆者が【興味・関心・意欲・気力を注ぎ込んでいるか、注ぎ込めるか】を促進するものは正しく、減退させるものは悪しきものである。


そこに視点を置けば、「正解を教わらないこと」というのは、なにより重要である。問題があって答えがないほど素敵なことはない。


その場でおのれの「浅〜い知的好奇心」が満足することは、誰も幸せにはしない。誰も恩恵をこうむらない。その場で消え、何ものにも生まれ変わらない。


それらは「使う」ものである。それ以前に「身につける」ものである。したがって、そこで「ふんふん」などと納得したのでは、その事例は「頭の中」でとどまる。とどまる限り、体現されることはない。


情報が何もない時代であれば、新知識は重要であっただろうが、今は情報があふれている。一瞬読んで、あとはせっせとやることの方が、自分自身に得るものは多いことを強く実感する。


ということで、筆者は筆者の「人間に対する興味関心」が強烈に持続することが、会員の皆さまのメリットになり、ひいては経営を安定させ、家族が安心して暮らせることにもつながる。


S川さんとは【答え合わせ】をする機会がほとんどない。たまにやると、その時には「ということはこういう場合はどうなるんだあぁあぁあっっっっっあ〜」と【問題】の方が吹き出すので、宿題が増えるだけである。


ということで、筆者は冒頭の


●・・・・・・の場合は


の場合の筆者の回答を書かない。こうしておくと、おそらく数週間以内にあらたな『報復攻撃』が行われることであろう。こうして、答え合わせのないキャッチボールは続き、筆者の「人間に対する興味・関心は強烈に持続する」のである。


楽しいなあ。


繰り返し読まないと書いたが、野口先生のものは別である。あそこにはむき出しの回答がてんこ盛りに書かれており、かつレベルが上がらないと分からないようになっている。やらない人が読んでも十分に面白く、やると気づきが多くあるという凄い本である。


しばらく読まずにいて、「独力で見つけた!俺はなんて偉いんだ」と自画自賛で喜んでいる時に、ふと読み返した一冊の中にそれがすでに別の表現で書いてあることはしょっちゅうである。「げっ、書いてたの」と打ちのめされる。



ところで、S川さん、日野先生のチラシの目、あれはほんとに凄いです。同じ日の昼間、筆者もちらしとにらめっこしてました。