1060話 う〜ん そうなんだ

28日の読売新聞・朝刊

「教育ルネサンス781 激戦!塾 予備校」


公文式」に対して「本当の学力がつくのか心配だという声もよく聞きます」というスタンスで、「基礎基本の定着とともに、理解力、発見力、表現力の3つがつくようにします。目指すのは『使える力』です」とうたう、ガウディアという大手予備校と中学進学塾がタイアップしたあたらしい学習塾の誕生が報じられていた。


公文 VS 河合塾日能研 なんだそうだ。


かいつまんで書いてしまうと、おそらくどちらの塾からも「うちはそんなに底の浅いものじゃない」とクレームがつくだろう。しかし、かいつまんで言わないと話が進まないので、かいつまんで書くと、世界展開までしている「ガリバー」公文式が「単純反復」なのに対して、ガウディアでは「色々と工夫を凝らして、使える力を獲得できます路線」でいきますよ、ということらしい。


どちらが優れているというコメントが筆者は書きたいわけではない。


教え方の下手な先生に、難しい問題だけどさっと出されて、机の前でただ解らない苦痛に耐える時間はあまり意味がないなあということはきっぱりと言いたい。


学習の話ではなく、仕事上で「実際に使いものになる力がつく」というレベルになるには、年単位で朝から晩までそのことを考えて、工夫して、知識もたっぷりと入れるというのはあたりまえだ、ということは言える。


いずれにしても、「自発的なもの」だけが力になり、いかに優れたものであっても、おんぶに抱っこ状態であれば、そこまでの力にとどまるだろうなあと思う。


学習塾の対象は小学生だが、選択決定権は圧倒的に親が持つ。自分のお小遣いをためて塾に行っている児童というのは、想像がつかない。


塾は、その親のニーズに対して応える内容を品ぞろえせざるを得ない。いかに教育への理想が高いものであっても、その制限がかかる。


塾でいう学力、世間でいう学力というのは何かというと、「一定時間の中でたくさんの問題に正答する能力」のことである。


なぜそうなるかというと、親に「学力」がないからである。阪急電車のドアの横に、時々学習塾が私学中学入試の問題と解答を広告として出しているが、答えられないレベルの問題も多い。


小六が対象になっている問題でさえそうである。


誰かに点数をつけてもらわないと、親だって子どもの「学力」がどの程度のものなのか、上がっているのが下がっているのか解らない。


しかも「一定時間の中でたくさんの問題に正答する能力」には、さらに使用目的が限定される。


入りたい中学校の入試問題に「一定時間の中でたくさんの問題に正答する能力」である。親の関心はそこにしかない。


『「公文式」に対して「本当の学力がつくのか心配だという声もよく聞きます」』という親の心配する「本当の学力」というのは「入試即応戦力」であるのは間違いない。公文式によって、この子は人生にたいする深い洞察力がついた、良かった、という親を探すのは非常に難しいであろう。


『「色々と工夫を凝らして、使える力を獲得できます路線」』というのは、いろいろとひねった「考えさせる問題」に解答する力がつきますよ、という意味で親は聞く。


筆者が今、46年目の人生で頼りになっている力は、解答力ではない。問題を選び、問題を作る能力の方である。


あらかじめ誰かが埋めておいた宝物を短時間で掘り出す能力ではない。どこを掘るかの勘であり、何を掘るかを決める力である。世の中正解が通用しないことだらけで、正解が多数あることだらけで、不正や不正解だって通用するのがふつうの世の中である。


解らないことだらけの中で、どの解らないことを突き詰めていくかということを外すと、報われない。それが当たると、鉄鉱石を掘るつもりでプラチナやら銀やら金やらがざっくざくということもある。


では、その能力は何によって培われたかというと、最も近い解答は「運が良かった」である。


ええ、そうなの!


書いててびっくりした。


でも、そうである。決め手はやっぱり運である。


そうか、親は無意識に最後の決め手は運であると知っているから、運の「負の影響力」を可能な限り引き下げる方策として、高学歴・一流校卒業という誰でも思いつく方向へ走るわけだ。なんだ、そうだったのか。


ではどうやれば運が良くなるか。


これはさほど難しくない(けど難しい)


それは「自分はなんて運がいいんだと思いこめる能力を獲得すること」である。他人が見てどう見ても不遇な時代に、幸せそうに悠々と楽しむ素養が身についておればいいのである。


これを頭でやろうとしてもまずうまくいかない。「・・・・と思おう」とすることは、同時に「今は・・・ではないんだ」ということを強く認識する方向へ働くからだ。


幸せというのは、身体感覚でいえば「快適」ということである。ここちいいやん、ぴったりやん、しっくりやん、ということである。


こうやって書けば、全て「他者とのフィット感」に根ざしていることが解る。他者とのフィット感のない幸福感は、他者によって支持されない。自分だけいい気持ちになって相手を思いやらない男女の営みや、薬物による恍惚感などがそれである。


自分は幸せだという時、同時に関係者はどうなのかと問うてみると、その適否がわかる。


「フィット感に根ざす幸福感」の感覚は訓練によってかぎりなく獲得養成向上発展進化させていくことができる。


ラブラブのカップルは、その成立の初期段階で、おそらく二人の共通項を見つけては驚喜するだろう。


「あなたも丑年?いや〜ん、アタシも う・し・ど・し うふ!」


てな具合である。


つまり、共通項・共鳴事項を探し、味わえばいいのである。


重心が落ちる感覚を快適と感動しているM安さんは、踏まれる地球がどう感じているのかを検証しなければいけないということであるし、Y田君はボールもラケットもコートも喜ぶテニスというものを追求していきたまえ、ということである。


逆に言えば、他者との差違にのみ注目し、感覚よりもデータ、ということを日常にしていると、快適感覚味わい能力は著しく低下する。運はどんどん逃げていく。


代表的なのが偏差値で一喜一憂し、得点のみで良否を判断する視野の狭い受験勉強である。


つまり、親は「運が持つ決定的能力」を体験上知りうるがゆえに、その影響力を低下させようと一流校へと我が子を追い立てるのであるが、一流校に入るための視野の狭い勉強法は、その子の「快適感覚獲得」にブレーキをかけ、結果として「運の悪い子」にしてしまっているのである。


なんだ、差し引きすればゼロだし、受験に失敗したらマイナスじゃないの。


「視野の狭い勉強法は」と書いたが、視点を変えれば受験勉強もいいものに変わる。というお話はまた別の機会に。