1075話 人生ごり

「人生を共に歩んだコリの研究」

人の健康関連に携わっている年月を数えると、ヨガの指導員をその皮切りにして「その道21年」ってことになる。


何千人という方々の「こりこわばり」とおつきあいしてきたことになる。


筆者自身の「こりこわばり面積・体積」というものは、一般の方が10だとしたら、2程度であるようだ。筆者の筋肉にふれた方々は、その「ぽにょぽにゅ度」に驚かれる。


それでも「ど〜してもゆるまないこことあそこ」はある。人生の中の長い年月をともに過ごした「こりこわばり」である。


「ど〜してもゆるまないここ」や「あそこ」を指でピックアップして、一体どこと関連しているのだろうと、腰椎の5つのそれぞれ右左と対応を探り、響く椎骨を探す。


そこに氣を通せば一時的に改善することは多いが、根本解消というのはなかなかだ。


腰椎の左右のそれぞれの点、歩みの中のどの動作と関連しているかということは割り出せている。そこで、受講される方々の「人生の中の長い年月をともに過ごした『こりこわばり』」と対応する腰椎の「歩み動作」をチェックしてみた。


びっくりした。


どの方も「その動き」だけは見事にできないのである。できないというよりも「世の中にそんな動きがあるのか?」という反応なのである。


別に「アクロバットのような動作をしろい!」というのではない。もともと前に歩く、後に歩く動作を分解しただけであるから、誰もが容易にできるはずの動作である。


それら分解した動作を、きっちり「その動きのもとになる腰椎の『そこ』」に響くだけ強調して出すというだけである。


右足一本でひょいと後に左足を送る、とか左足一本で、ひょいと右に捻り返すとか、そういったものである。


Y田君の同僚のK山コーチも、S澤パパも硬軟の違いはあるが、どちらもテニスをやる。お二人の「人生こり」の場所は違えど、お二人とも腰椎2番左に響く。


腰椎2番左は、右後ろへの後方スライドステップである。つまり右後方にはすすっと動かないということを表している。


右後方へ飛んだボールは苦手ではないかと聞いてみるとK山くんは


「そのコースに飛んできたら、あきらめます。追いもしません」


とのことであった。


S澤パパは


「そのコースは打てません。だめです」


とのことであった。


みなさん、「人生をともに歩いたこり・こわばり」と腰椎で対応する動きは、ほんっとに見事にできない。くりかえすが「どう動いていいか分からない」状態にフリーズしてしまう。


そこでいくつかの方法を使って、そのできない動きができるようにしてみると、人生のパートナーだったはずの、押してももんでも、つねっても叩いても、温めても冷やしても、おだてても叱ってもびくともしなかった「人生ごり」が消失、もしくは大幅に軽減されるではないか。


つまりこういうことであろう。


歩みの中に5億年の進化とともに培った5種類の動きが入っている。これが「五角形の車輪」のようなものだとする。


5角形であれば、回転することができる。


ところが、その中の一つの動きを飛ばしてしまっているとする。5角形から一つの頂点を取ってしまうと残る四角形は「台形」である。


台形の上辺の側は、まだ角度が甘いから今までどおり転がる。ところが台形の下辺の側が下になると、それはお城の石垣型になるわけで、きわめて転がりにくい。というか、転がれないのである。


もしも「台形」の車輪であれば、「お城の石垣型台形」の回転形になった際には手を添えて「よいしょ」「ガッシャン」と持ち上げて転がさなければならない。


その部分を「人生ごり」が引き受けていたのである。必死にこわばって、その失調した部分の代行をしているのである。


ゆえに『押してももんでも、つねっても叩いても、温めても冷やしても、おだてても叱ってもびくともしなかった』のは、そうやって余分に緊張しないと動けなくなるからであって、命がけで「こって」いたのである。


柴犬の立ち姿や猫の歩く姿をみてほれぼれし、人の歩くのを見て「なんでこんなにぶさいくなんだろう」と感じたのはそれがほんとにブサイクだったからだ。台形の車輪をごたごたと回しているからである。


「長年連れ添ったこり」の解消はなかなかにむずかしいが、(だから長年連れ添っているのである)失調している運動を回復させることは、個人の努力でも可能である。


美しい歩みと、しなやかな身体の両立の道が見えてきたのである。



昨年いろいろな受講生の口から「グラウンディング」なる言葉が発せられた。


なんのこっちゃと聞いてみると、簡単に言えば「地に足がついている」ことで、足の裏を通して大地を感じるというような意味ないし行為をさすらしい。


誰が言い出した言葉かは知らないし、複数の方が提唱している感覚なのかもしれないが、それを言い出した方はおそらくまともに歩けている度合いの高い方であろうと推察する。


歩くってなんてすばらしいんだ、ということを実感された方なのだろうと思う。


しかし、グラウンディングという単語を発せられた方々は全員、首やら肩やら背中やらに「ごりごりのこり」や「かちかちの痛み」をしっかりと抱え込んだ方々であった。


言い換えれば「まともに歩けていない」方々であった。


自覚はなくとも本質的には歩けていないからこそ「グランウディング」に興味を持ち、関心を示し、心惹かれるものがあったのであろう。


ほんまに歩けるようになった時の楽しさは、そんなもんじゃおまへんで。