1105話 小出監督方式 その後

 

こういう整理がつくと、今回提案の「小出監督方式」というのも、うまく行かない人にはうまくいかないということが分かった。(あたりまえだが)


それはみずからの中に、「本質的ないい動き」を見つけ、それに賛辞を送り続けることで拡大していく、という提案であった。しかし、前記のように、筆者が「流れを感じられない方」は、みずからの中にそれを探そうとしても「ないものはない」のである。探しようがなかった。


武術や整体の稽古の中では、こちらが技をかけたり、手を添えたりして「より本質的なものに一時的にシフトする」体験をしてもらっている。その時に感じたものを大事にして、それらを手がかりに探せば、うまくいく可能性は高まる。


しかし、結果だけを求める人は、すぐに自己流でやりたがる。今すぐにできるという結果をほしがる。結果として「慣れればできる程度のことはできるようになるが、自己の立ち位置や意識が変わってはじめて得られるたぐいのものはいつまでたっても得られない」ということになる。


こうやって書いていて、整理がついてきたことは、自分が稽古生の方に何を指導しているかというと、最終的には「自家発電で上達し成長し続けることができるサイクルがその人の中に生まれること」を目指しているということだ。


そこまでいかなくても「その場にどどまろうとしているサイクルの呪縛から解き放つこと」はやりたい。これって結局同じ意味か。


しかしながら、「自分が自分だと思ってよりどころにしている自分」というものがいかに怪しいかということは「ユーザー イリュージョン」で証明されてしまった。


自分がやった行為に0.5秒遅れて「自分が命じてやったストーリーをねつ造する」というサイクルってやつは、一瞬にしか生まれないものだろうか。


今行った行為に対してのみ、ねつ造が行われると考えるよりも、しばらく前、ずっと前、以前から今までの長い流れなども、ことごとくねつ造をしていると考えた方が良くはないだろうか。


つまり、あらゆる意識的にやったと思った行為のたびにねつ造されたストーリーの集積がよりどころにしている自意識であれば、自分が自分だと思っている自分なんてものは「ねつ造の集積」であると思った方が確かであろう。


統合失調症の人や痴呆の方々が「ご自分の世界の妄想」に浸っていて「異常」であり、それをそのように判断している「私」は「正常な意識」だと思っているけれども、それでいいのだろうか。


他人と共有できない、というあたりを除けば、あまり変わりはないのかも知れない。


なんか、とっても大事なことを考えているようである。書いているようである。


確かに、この文章だって、書いている最中には「こういうことが書きたい」と思って書いていないのである。書いたものを見て「俺ってこんなことを考えていたのか?」と感心しているのである。


その限りでいえば、筆者は書く時に「意識的に書いていない」という自覚がある。つまり「ねつ造」がなされていない。


だんだんと、何が書きたいのか支離滅裂になってきた。頭のあっちこっちで色々なことが同時に考えられてきたようだ。しばらく発酵させよう。