1104話 小出監督方式

意識の処理能力は多くて毎秒40ビットしかなくって、実際に得ている情報はその36000倍!!!!!という話は1001話前後で書いた。


これに関して少々。


まず意識処理能力の40ビットに関して。記事では実際には40ビットまでいかずその半分程度ということも多い、というような一行がある。すると、36000倍というのは、実質7万倍である。ほとんど人間と鉄腕アトムの差である。(鉄腕アトムは10万馬力だ)


最近は夕方の駅や地下街の雑踏が好き?だ。これは速読のS本さんも指摘していることだけれど、トレーニングをはじめると雑踏が気にならなくなる。ただごちゃごちゃとうるさいところから、色とかたちと流れが認識できるようになって、「いいやん、きれいやん。活気が一杯やん」という景色に変わる。


それまでの「嫌やんけ、ごみごみやんけ、うるさいやんけ」と感じていた雑踏と、同じ人混みがこれほどに違うものになるのである。もちろん見ているこちらも同じ人である。


ということは、40ビットの使い方次第で、ぜんぜん違った世の中の認識になる、ということである。今一つは仮説でしかないが、その40ビットというものも、訓練次第でけっこう伸ばせるのではないか?ということである。


40ビットが80ビットになった結果の「景色が圧倒的に違って見える」(かよちゃんやS本さんは音が違うと言っていた。イラストやデザイン系の人が、色・形以上に音の違いにずっと注目=傾聴?=しているのもおもしろい)のか、40ビットの使い方で変わるのかは、今急いで結論を出す必用はない。


なんせ、結果としてはいい方向に向かっている手ごたえのあるトレーニングをやっているわけだから、さらに結果が良くなるにつれて、おのずとどちらの効果が大きいということも明らかになるだろう。


今のところ、処理能力そのものを上げているのではないか、という手ごたえを感じるのは「速読とそれにまつわるトレーニングの数々」である。


40ビットの使い方を変えているのではないか?という手ごたえを感じるのは「味わいトレーニング」である。


意識で身体をコントロールしようとしても、それは0.5秒前の情報を元に組み立てられた虚構である可能性が高いので、この方法は労多くして益なしの可能性が高い。


だいたいスポーツのフォームの修正などは、「うまくいっていないところを感じて、それを何とかしようとする」という「意識運動」である。


しかし、その情報自体が古い。おまけに自意識がキャッチしていない情報が数万倍ある。そのうちの一つや二つをとがめ立てしたからといって、フォームが飛躍的に良くなるとは思えない。


意識的にフォームを修正しようとして、よけいにスランプに陥る話は良く聞くが、逆はあまり聞かない。ある日「ふと」うまくいくようになった、というエピソードならてんこ盛りで聞く。


そこで、身体が上達する(私が望んでいる結果の方に向かう)にはどうすればいいのだろうか。


まず「意識的にぱっと正解に修正することができる」という幻想を捨てる。ぱっとは無理でも身体の動きが徐々に、かつ継続的に「私の望んでいる結果の方に」限りなく向かい続けるにはどうすれば、という視点からの方法はどうであろう。


つまり「意に添わないところをチェックし、意に添うように意識的操作する」という「常識的な方法」を捨てるのである。そのかわりに「我が意を得たりの部分を意識的につよく『感じ取る』ようにして、それに最大限の賛辞を送り、拍手喝采する、という方法である。


馬鹿社長理論で解析するなら、部下のちょっとしたミスを徹底的に叱責し、悪口雑言を投げつけ、具体的な方法を示さず、結果のみを強要するという関係から、継続的に望ましい変化は生まれないが、部下のやっている中で、それこそが重要でいい結果につながり、会社にも顧客にもメリットがある、と見定めたものがあれば、それをすかさず部下に伝え続ける、という方法である。


これは、一番強かった時期の高橋尚子に対して、小出監督が伴走しながらやっていた。


「もっとこうやれ!」と言うのではなく、「胸の張りがいいねえ」「今の腕のふりがいいねえ」「この坂をそのスピードで上れるのはQちゃんしかいないよねえ」と車の中から声をかけ続けていたのである。


だからといって、筆者は道場で稽古生の方に対して、その方法は採用していない。特に整体の稽古に来られている方には、どちらかというと厳しく見ている。冷ややかに見ている。


ほとんどの方は立ち位置を間違えているからだ。知識を増やせばいいと思っている方。自分の仕事に直結している本質的な内容をやっているにもかかわらず、生かそうといている気配のない方。自分を変えたくて来ているにもかかわらず、一生懸命に変わらないで済む方法で取り組もうとしている方。


自分がかつて学んだことで解釈しようとしている方。ほとんどの場合は間違いである。あることを学び、身につけようとして、その結果ものの見方感じ方味わい方が変化して、結果として成長した、伸びた、上達した、結果が出たというのであれば過去に学んだことで解釈してもいいんだろうと思う。


しかし、過去で解釈しようとしている方は、多くの場合その「過去に取り組んだこと」でほとんど学んでいない。新しい知識と物珍しい体験が一つ増えただけである。


こちらは、正しいやり方が伝わった後に、実行して、やり続けて、必用な量がやれた後に分かったと言えるようなことを伝えているのに、やる前に分かってたまるか。


ところが、同じ会話でも、その方が本当に取り組んでこられたことと対比された場合は分かる。なぜなら、その際には、その方からこちらにエネルギーがどどどどどどっと流れ込んでくるからである。こちらの方が「こうしちゃいられないわ」と火がつくからである。


そうでない場合はエネルギーが生まれない。流れていくのが感じられない。相手は今までどうりの取り組み方で、相手には火はつかず、こちらのエネルギーが流れていかない。こちらのエネルギーは、両者の間に「断末魔の線香花火」の「火玉」のようにぽとりと落ちるのである。


って書きながら「そうだったのか」と感心している筆者であった。歯がゆく感じ、イライラし、あかんわ、と嘆く裏にはそういうからくりがあったのか。(なんとなく続く)