1107話 前世 1

 
前記の新聞書評にもあったが、意識が行動を決定しているのではない、とすると、たとえば文学で「私小説」と言われるようなものは、いったいどうなっちゃうんだろうとその影響を指摘していた。


つまり、「僕はこう思った、だからこうしたんだ」


というような文言がある。読者も「そうなんだなあ」と理解する。


しかし、実態は「僕の知らない間に、僕はこういう行動をとってしまった。それでその行動にふさわしい僕の考えをこっそりと0.5秒遅れで作り、あたかもその考えにもとづいてそう行動したかのように思いこんだんだ」


というのでは私小説にはならない。


しかし、私生活にとどまらず、同様なことは、至るところで起こっている。


「前世のお話」が好きな人がある。筆者は、前世の影響は来世に調べることにしているので、筆者は特に「前世」に肩入れはしないし、否定もしない。


「前世」に関して「私は前世の記憶がありまして、実は・・・」という形の方とはなかなかお会いする機会はなく、「あなたの前世はこうなのよ」を語る人は良く見聞きする。


この場合の「あなたの前世は○○」という指摘をする人が、一体何を指して「前世」と言っているのか、というのは検討された方が良いように思う。また、受け取り手は何を「私の前世」と受け取っているのか?ということも考えてみたい。


「前世の私」を受け入れる人は、一体何を指して「前世の私」と思っているかというと、ほとんどの人が「私が私だと感じ、思っている今生の私」に対する「前世のその私」である。


ではその「今生の私」というのは何かというと、これまたほとんどの人が「私が私だと思っているもの」である。つまり「自意識」である。


ところが今生の私(の自意識)というのは、身体が先にやったことに0.5秒遅れて、いかにも自分が指示したようにねつ造して思い上がっているねじ曲がった「根性」の輩である。(言い過ぎかな)


今生の「ねつ造意識」の前世は、鎌倉時代武家の三男の「ねつ造意識」だとか、ベルサイユ宮殿に集う貴族の一人娘の「ねつ造意識」なんだよ、と正しく言い変えたとたんに、「私の前世」「あなたの前世」という会話ものが指す「すぴりちゅある」な「おーら」はくすんでしまうところが楽しい。


それで一歩譲って「ねつ造までも行う自意識」は真の私ではなく、私の実態はその一段奥にあるか、深いところにある「やや無意識よりの意識」の部分である、としよう。じゃないと「ねつ造の私」ではかっこがつかないもんね。


ということで、人間にもあるけれども、決して人間だけでなく進化の過程では先輩にあたるものたちにもあるような「それ」を「私」の実態である、ということにしよう。