1108話 前世 2

ということで、人間にもあるけれども、決して人間だけでなく進化の過程では先輩にあたるものたちにもあるような「それ」を「私」の実態である、ということにしよう。


すると、獣たちというのは、決して「俺が俺が」と主張しているようには見えない。自分探しの旅にも出かけていくようにも見えない。自分の食い物探しの旅にはしょっちゅう行ってるようだけど。


どちらかというと「群れの一部分」であるとか「種の一部分」としてふるまっている面が実に大きく見える。そして生命の欲求に忠実である働きであるように見える。


そうすると、「その私」というのは自己の生命の欲求に忠実であり、かつ全体の一部分である「私」ということになる。


集合的無意識そのものなのかどうかは知らないが、そちらよりであることは確かである。


その場合の「私」というのは「個の私」であると同時に「全体」であり、「一部である」というものということになる。


「個の私」であると同時に「全体」であり、「一部である」なんて書くと、とっても「すぴりちゅある」な「めっせーじ」の香りがぷんぷんする。そういうことを語る集団に行くと「なんか魂が向上するわ」ってな気にもなりそうだわ、ってのも分からないでもない。


んが、これを筆者はどのように理解しているかというと、数百匹の鰺(あじ)が、ちゃんこ鍋屋の巨大水槽の中で(別に水族館でもいいんですが)群れの全てが一瞬に同じ方向に向きを変えるのを見たことがある人は多かろう。まさしく『「個の鰺」であると同時に「鰺の群全体」であり、「鰺の群の一部である」』


そして、その鰺の一匹一匹にも前世がある。


右から四番目の鰺は、中世ヨーロッパの貴族のお屋敷のいけすで飼われていた鰺で、下から7番目の鰺は、平安時代の京都で、「ひらき」になって食べられた鰺で、真ん中の右隣の鰺は、江戸時代に二代将軍秀忠が将軍に就任して3年目の4月21日の昼ご飯に食べた鰺である。


だれも「おおおお!」とは思わないであろう。


前世のお話は「誰でもないかけがえのない私」という「個としての私」を徹底するほど、意味が出てきて、他とのつながりや他との関係の中の一部としての私という認識をするほど色あせてくるのである。


くり返すが、私は「前世などはない」などとは一言も言っていないし思ってもいない。


私が私だと思っている私は、身体のキャッチしている膨大な情報を意識で処理するのではとうてい追いつかず、そのつじつまを合わせるために、後追いでストーリーをねつ造している私を含んでいる以上、私の実態ではない。


私が私の実態とはずれている以上、その私が考える前世の私が、実態に合っているはずがないということを申し上げているのである。