1109話 重心と感受性

夜は、八木氏の呼びかけで役者のみなさんと研究会。



今回はK西G術座のみなさんが多数に中国演劇研究の研究会二回目のTさんなど。


来月に迫った公演の一場面などを、やや即興を交えて演じて頂く。


定時制の高校のつぶれかかったボクシング部。存続に立ち上がって集まったのが女子ばかり。女の子にボクシングができるのかどうなのか?無事存続できるのか?って、たぶんそういう設定の作品。(かな?)


ボクリング部顧問らしき男性教師役が、上司の教師に訴える場面や、ボクシングを続けた女子部員のモノローグなどなど。


リレーションスポットを意識するとセリフが相手の身体に届くようになる。


足裏の「立位時 正接地ラインのテーピングによる感覚補正」を行うと、身体・心身の連動性や統一度合いが高まる。


感受性が前を向く「奇数体癖」と「偶数体癖」に演じ分けができるように身体の氣の方向を前・後別々に誘導するとまったく違った演技になる。


予想通り、奇数体癖では存在感や迫力は出るが「内面のあれこれ」という深みがかもし出されてこない。しかし、もともと偶数体癖のM本さんなどは、前に出る強さが弱いので、S江さんなどは、もっとチャンチャンバラバラ強くかみ合いたいと感じるそうだ。


上司役のS江さんに、M本さんがすこしのろけを交えて話をする場面。二つほどセリフを口にした後、M本さんの様子がおかしい。絶句して身をよじり次のセリフが出てこないのである。


セリフを忘れて照れているのにしたら、少々様子が違う。


演じ終わった後で尋ねてみると


「身体から恥ずかしさ、照れがこみ上げてきて(のろけ的場面ね)セリフにならなかった」


というのである。


ということは、今まではせりふは流暢に出たかも知れないが、そのセリフが必然的に口をつく「照れや恥ずかしさ」というものは感じていなかった、ということになろうかと思う。きつい言い方をすれば、そういうものが身体性にないのに、そのセリフを言うことになっているから言った、ということになる。


演劇に関して、さまざまな形態があっていい。リアルな身体性がなくなって軽妙な気の利いたセリフや奇想天外な設定や嫌がおうにも笑って泣けるストーリー、効果音やら音楽やら照明の総合力で、鑑賞に足りうる作品になる面はもちろん持っている。


しかしながら、それをもって八木氏は


「それやったらつぎはぎでできるテレビや映画には絶対負ける。演劇の将来はあらへん。演劇はライブや。身体性のかもし出すもので勝負せえへんかったら芝居の値打ちはあらへん」


との視点に立っており、筆者はそこにしっかりときっぱりと賛同するものである。


また別の場面。女子のボクシング部の存続についてM本君が熱弁をふるう場面である。



感情面に作用し、消化器や排泄することに関係の深い4種傾向に重心位置を誘導して演じてもらうと、M本君、ほとんど泣きそうになりながら演じる。


勝負にこだわり、力感があり、身体の捻れと関係の深い7種傾向に重心位置を誘導して演じてもらうと、とたんに「熱血体育教師 上司を前に一歩も引かないぜ!」という場面に変わる。


というようような(って他にもいっぱいやったけど、書ききれないので登場されたみなさんごめんなさい)「問いかけ」を投げかけた3時間であった。


まともに立ち、正しく「身体芯奥部 自動動作起点運動」による歩行チューニングが可能になり、同時にそれは自分の身体性を構成している10種類の体癖的行動特性と感受性を縦横に感じ、演じ分けができ、意識的運動から無意識的氣の誘導発動運動行為にシフトを移し、自分・相手・場面・観客との氣のうねりの中を縦横無尽に闊歩するとてつもなくバージョンアップされた役者の方々がぞくぞくと誕生し、そのための訓練メソッドと場が生まれ、それを経た役者のみなさまが演じる、ぞくぞくするような芝居がぞくぞく上演されるようになる日を楽しみにする筆者であった。