1131話 人のことをとやかく書こうとしたら、自分のお尻に火がついた

日野先生のブログにこういう記事が掲載された。短文なので全文引用させて頂きます。


先日とんでもない質問をされた。


「人が10年掛かってやったことを1年くらいで、出来るようになることってありますか?」と。


「そんなもんがあるのなら、俺に教えて欲しい」


この質問が中学生であれば、答えようもあるが、立派に仕事をしている人からの質問だったので、答えに困った。


同時に質問の主旨を掴めなかったので、「どういう意味なのか」と聞き返した。


しかし、10年が1年になるか、ということだった。


もちろん、ならないことはない。


ただ、ケースバイケースだ。


人が毎日1時間位を費やしてやり遂げたことであれば、その10倍の時間を1日の中で費やせば可能なこともあるだろう。


現実に私はドラムの場合、人が4時間ほど練習している、というのを聞いてその倍の8時間は練習をした。


その意味で、その人の半分の日数である地点までたどり着いた。


具体的技術を必要とするものは、絶対年数というべき年数を削ることは出来ない。


しかし、どうのこうのという前に、そんなことを質問する暇があれば、そんなことを考える暇があれば実際に取り組んだ方が前に進む。

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引用ここまで


「人が10年掛かってやったことを1年くらいで、出来るようになることってありますか?」

という質問に対しての


具体的技術を必要とするものは、絶対年数というべき年数を削ることは出来ない。


という日野先生のお答えに関しては、「なんら異論なくその通りである」と書きたい。


書きたいが書く資格はない。


何が書けないかというと、同じ単語で「やる」とか「取り組む」書いても、日野先生のはほんとうに「やる」「取り組む」ことであって、私の「やる」「取り組む」とは指しているもののレベルが全然違うからだ。


あえて言うなら「日野先生のお答えに一票」である。


一票投じた上で、あえて


「人が10年掛かってやったことを1年くらいで、出来るようになることってありますか?」


に「人によってはありますよ」と書きたい。ただし、質問は多少修正の必用がある。



日野先生の2月11日のドラムソロコンサートからそろそろ3ヶ月である。


戦前戦後とか震災前と震災後というような言葉があるが、筆者にとっては「日野前 日野後(敬称略)」である。


普段使っているダイヤリーの右側のページに書いている「出来事気づき発見メモ」の欄を見ても、見るまでもなく思い出しても、「日野前日野後」では一変している。


スピードがまるで違うのである。そのことに気づいたのは、そんな最近だったの?という感じである。2ヶ月前ってまだそんなことしていたの?という感じである。


「人が10年掛かってやったことを1年くらいで、出来るようになることってありますか?」


という質問に関して引っかかったのは、自分自身がそういうことを受講されるみなさんに口にしているからである。


ただし、それは「私が10年も20年も掛かって、やったつもりでやっていなかったことを、取り組み方がややまともになったら、前の自分なら10年かかっても行かなかったところへ、1年やれば驚くぐらい違っていることになっていたという事実があった」という意味である。


今までがひどければひどいほど、そういうことは自分の過去対比ではありうる、ということである。


日野先生は20年ぶりだったか30年ぶりだったで本格的にドラムを叩き、それを目の当たりにした筆者は、混乱と激震のどん底(でもとっても明るいどん底)に突き落とされ、その余震の中でわけが分からないままに走りだして、気がついたらそれ以前とは一変した密度と速度の中にいたのである。


数十年ぶりに叩いたドラムでさえ、聴く相手にそれほどの揺れを引き起こす、そういうレベルで発信されるような物事への本質的な取り組みのことを、日野先生は「やる」とか「取り組む」と言っておられるのである。


そういう「やる」であれば、10年かかっていきつくところを、1年でいくなんてことは断じてあり得ない。逆に日野先生やそういうレベルで励まれている諸先人の方々が1年でいけるところを、自分はいったい何年何十年かかるだろうとか、ホントにいけるだろうかというところから取り組みを考え直す方が自然である。


雪だるまのようなもので、そういう諸先人は、一回転がどんどん大きくなられるので、仮にその速度に追いついたとしても、その時には諸先人は、さらに加速して先を行かれているのである。


質問者は、質問する相手を間違えているのである。


筆者のように20年も「やっているつもりでやっていない」「上達しているつもりで、実は本質的なことは何もできていなくて、そのものに慣れただけ」からようやく「ちょっと脱皮しかけ」という相手に質問すれば良かったのである。


そうすれば、「無駄な、実りのない、でも『できていることに記憶を擬そうねつ造して』実際には進歩のない10年(20年)が、まともな世界にちかづきつつある手ごたえのある1年に変わる喜び」について嬉々として語るのを聞けたであろう。


でもやっぱり日野先生に質問された方が良い。


「そんなもんがあるのなら、俺に教えて欲しい」

と言下に否定された方が、より間違った方向に無駄な時間を延々費やす可能性を減じられるだろうから。


と、ここまで書いてまた別の思いが浮かんできた。


質問者の


「人が10年掛かってやったことを1年くらいで、出来るようになることってありますか?」


という質問の文言である。なんで主語が「人」=「他人が」 で始まるのだろう。


主語を自分に置き換えればいい。


「自分が10年かかってもできそうもないことを、とっくの昔におそらく1年もかからないでやってしまっている日野晃という人が目の前にいるんですけど、そういうことってありますか?」


目の前にあるやんけ。