1155話 目的 目標 その一


自意識の働きをできるだけ低下させる。ただし、今から何をやるのかということは意識で明確にする。声に出して言葉にしてもいい。そして、体に任せる。そこに生まれてきたものに逆らわずに。それが終わったら、結果を感情を交えずに正しく検証する。この繰り返しで結果がスムーズによくなっていく。


さらに言えば、その際の身体を、こりこわばりをできるだけ低下させるように、立ち方歩き方をよりまともに近い方に補正しておけば、さらにいい結果が得られる。


今やっていることの骨子をかいつまんで表現するとそういうことになる。


自意識を一時的に休眠状態に持ち込めば、いきなり変わってしまう。それはスポーツでもダンスでも演技でもそうだった。


バッティングセンターに通いだして4ヶ月。5月の末に初めてホームランが出たが、10日ほどの今日、2号が出た。



この方法がくせ者なのは、自意識を低下させた状態では、本人は「楽」になるので「がんばって苦労して、創意工夫した結果それを得た」という実感のないことだ。


スポーツ、前記のバッティングなどは打球の速度や飛距離やどこへ飛んだかなどで結果が解るので、ましになったことが実感できる。


今日開催の演劇研究会などはくせ者である。


見ている側からは、もうまったく違うのだが、演じている側がいまいち手応えを感じていない場合がある。


ってここまで書こうと思っていたことと全然違うことが頭に浮かんだのでそちらを書く。



自意識の働きをできるだけ低下させる。ただし、今から何をやるのかということは意識で明確にする。


と、冒頭に書いた。たとえば筆者のつたないバッティングであるけれど「できるだけ統一体を作り、まずはヒットで打ち返す率を上げよう」という構えの時よりも「あのホームランのボードを狙う」とはっきり決めてから、ちゃんとホームランが出るようになっただけでなく、飛距離も打率も上がっている。


役者の多くの方々が、筆者と同じ勘違いをなさっているのではないか?と思う。


「いい演技がしたい」という言葉を聞く。今まで違和感はあまりなかった。


これってもしかしてバッティングで「いいスイングがしたい」と言っているのと同じかもしれない。


バッティングだったら、思ったところに打球がかえってなんぼである。いかにスイングがすばらしくても、ボールが正確に打つ返されなかったら、その「見事なスイング」には何の意味もない。


まっ、演劇にもいろんな形態があるだろうから十把一絡げには言えないだろうが、理想は役者たちによって観客のハートがわしづかみにされて、ぐわんぐあんとゆさぶられる、という体験を観客にさせる。願わくばその揺さぶりが劇場を出た後も何日も何週間も続き、その人の意識下の何かを変えてしまう、というものと仮定する。


これは架空の話ではなくって、2月11日に日野先生のドラムソロコンサートで筆者が体験したことそのままである。


いろいろなタイミングがちょうど合っていたということもあるだろうけれど、それ以前とそれ以後では手帳を見る限りまったく違ってしまっている。