1156話 目的 目標 その2

いろいろなタイミングがちょうど合っていたということもあるだろうけれど、それ以前とそれ以後では手帳を見る限りまったく違ってしまっている。 

(昨日より続く)


そして、あの時の余波が未だに続いているのだろうと思われる。思われるという不確かな表現になるのには理由がある。日野先生のコンサートは、「感動した」というような分かりやすいものでなかったのだ。「なんとかして感動しようと思ったのに、どうやってもそこまでいけなかった」というような「感動」だったのだ。



おそらく日野先生は、ドラムの練習やら技巧から始まっているのではなく、まだ見ぬ観客と対峙されるところから始まっているのではないかと思う。


うまく表現できないけれど、今目の前にいない観客を意識し続けて芝居の稽古するということは、非常に難しいことではないかと思われる。それはボールなしでバッティングの練習をしているようなものかもしれないと思うのである。


それで、いつのまにか「いかにも打てそうなバッティングフォームの稽古」に知らず知らずに陥ってしまうということがあってもおかしくないと思うのである。


観客に伝わるもの、揺さぶるもの、それはどうやったら出せるのか、伝わるのか。落語や漫才のようにもろに観客に語りかけられない形態の中で、どうやって向き合うのか。


だから、研究会参加希望の方が「いい演技がしたい」と言うとき、その思いはいったい何を指しているのかということを深く吟味する必要があると感じる筆者なのである。


八木氏より、「役者の体は楽器や。だったらチューニングが必要や」


という要請から始まった演劇との関わりであるが、かれこれ一年を大幅にすぎて、ようやくに氏の意図の輪郭が見えてきたような筆者である。