1263話 やっていること

昨日も書いたように「身体が判断してやったことを、意識は後追いで意識が命令してそれをやったように記憶をねつ造する」というメカニズムが脳や神経にはある。


それだけ読むと意識はじゃまものである。


しかし、実際にはそうではない。


後追いで使うと意識は足を引っ張り、事実から目を背けさせて混乱に陥れるが、今やろうとしていることや今やりつつあることに上手にブレンドするとすばらしい働きを持つ。



軽いと言ってからあるいは軽いと言いながら歩くと瞬時に歩みは軽くなる。


「重たい〜」と嘆きながら歩くと、瞬時に重くなる。


筆者担当の全ての講座講習で数ヶ月間確かめたから間違いない。ほぼ全ての人がそれを経験された。


歩みだけでなく、関節の可動域の変化や柔軟性でも同様の効果がある。



意識が方向付けした方向の感覚を、身体は意識にのぼらせる。


やったことを書き出すことによって能率や気分が大きく変わることを経験されたら、次は「今やっていることを何と表現するか」という段階へ行くこともお勧めしたい。


今筆者がやっていることは「ブログを書く」


という行為である。


しかし、角度を変えると「Yさんの質問への回答を書く」とも言える。


しかし、なぜブログにYさんへの解答を書くことになったかと言うと、Yさん以外の「計画しないからうまくいく講座」を受講されたみなさんへのフォローにもなるから、書いておいて連絡を入れようと決めたからである。


すると今やっているのは「計画をしないからうまくいく講座の過去の参加者へのフォローをする」という行為になる。


しかし、このブログは、「計画をしない…」講座を受けていない道場会員のみなさんも読んでおられる。


その方々も日頃の講座の中で、この「意識づけと言葉と身体の変化」は学ばれている。ゆえにその方々の頭の整理にもなるだろうとも思っている。つまり日頃の授業のフォローをしているということにもなる。


さらには、この「意識づけと言葉と身体の変化」は、10月の合宿のテーマにもなっているので、そのための自分自身の頭の整理にもなっている。


つまり、今やっていることをかたわらのノートにそのタイトルを記するとすると


Yさんへの解答を通じて、道場で学ばれている方々へのフォローと、最近来る機会のない人へのお知らせと、自分の中での合宿での内容まとめと、合宿の宣伝をしている、ということになる。


そう思ってやるのと、ただ「ブログを書く」というのでは、実際の行動(ブログであれば書く内容)に大きく差が出てくる。



今、私は何をしているの?


「歯を磨いている」と意識しているのと「歯の表面、歯間、根本の歯垢をくまなく取りつつ、歯茎のマッサージをする」と名付けるのとでは行為がまったく違ってくる。



行為がまったく違ってくれば、もちろん結果は大きく変わってくる。


「思い続けていれば、いつかはかなう」という言葉が、書物やらドラマやら歌詞やらでよく目にするが、「行動がかなう方向にかわっていくような意識づけを続けていれば、かなう可能性は増していく」というのが、ただしい表現だと思う。


が、あまりに当たり前の表現になるので、これではドラマのセリフにも歌詞にも採用されないだろう。


多くは「良好な結果を熱望している思い」を重視し「良好な結果に迫るための行為に向けての意識づけ」を軽視または無視している。


という表現も正しくはない。


みなみな他人に対しては、その他人が「良好な結果に迫るための行為ならびに意識」でいるかどうかは適切に察知されていると思う。


その他人がどれほど「良好な結果(お金が儲かるとか成功するとか勝負に勝つとか)を熱望して」いたとしても、そのために必用な行動をやる意識と実際の行動が皆無であった場合は、的確に「夢想するだけの怠けもの」という評価を下している。こういう評価はあまり分かれない。怠けものは誰が見ても怠けものである。



しかし、矛先が自分に向かったとたんに「こんなに良好な結果を熱望している私」が重視され、必用なことをやっているかどうかは軽視される。


そのずれが補正されると、補正された分だけ楽になる。


やったことをひたすら書いていったら、そういうメカニズムに行き当たったのである。


自分のやったことの「中身」と「意識」が問題になって、そういう展開になったのである。



いまやっていることをどういう言葉で表現できるか、を練習していかれればいいと書いて始めた今回お一文であるが、そのためにも表現の工夫以前に、やったことをひたすら書くというステップから始められるといいと思う。