1262話 やったこと記録法

「計画しないからうまくいく」を受講された「最近とってもおめでたいことになったYさん」からメールが来た。


>ご無沙汰しています。○○さんとの新生活が始まっています。

>最近は気付いたことをなるべく手帳に書くようにしていますが、昨日は久しぶりに「これをやっておかないとなあ」という頭で考えていることに身体が動かないままで過ごすことになり、気持ち良くありませんでした。
何か工夫する点があれば教えて下さい。。



「ユーザーイリュージョン」にあるように「人はその意志で動いているのではなく、やった後に『やれ』と指令を出した記憶をねつ造している」というのが実際に身体と脳の中で行われていることである。


やった後で「やれと俺が命じたのだ」という記憶をねつ造しているのが事実であれば、身体がやれと言う前に意志が「やれ!」と言っても身体が動かないということはありえると思われる。


しかし、実際には朝から晩まで何かやっているわれわれである。


意志が命令していないとすると、それは感覚器から入ってくる情報を身体が自主的に判断して色々と動き、そこに意志も時々介入しているというのが実態であろうと思われる。


やったこと記録法というのは、だから命令を出す意識に重きを置かずに、何をやっているのかということを観察することにシフトを移すということである。


で、これまた「観察しているつもり」にならないために、何をやったのかを終えるたびに書き出していくということである。


意志と申しますか自意識というものと、作業効率やら創造性やらは、だからと言って無関係ではなく、乗っていると「思えば」ますます乗ってくるし、「うまくいかない」と評価を下せば、ますますうまくいかない情報ばかりを認識してますます地獄の責め苦のスパイラルに入る、というようなメカニズムもある。


あれこれ「思う」時には都合のいい情報だけを記憶や感覚器から引っ張ってくるので、あまり事実と即していなくっても平気なのである。(ちなみに悲観的な方は都合の悪い情報だけを記憶や感覚器から引っ張ってくるので、あまり事実と即していなくってもいくらでも落ち込む材料には事欠かないのである)


ところが実際にやったことの記録というのは、実際にそこにメモになってあるので、事実として重たい。


人間思うとなると勝手にねつ造するが、書くとなると事実に近いことを書く。書くという条件を付けると、人はだらだらとした方ではなく、いきいき溌剌とした方向に行動の舵を切る。


思うだけだと「いや〜、やっかいで難しいことをやらなあかんなあ。きっついなあ。めっちゃしんどいなあ」という具合に頭のなかで登録するが、記録に「やっかいでむずかしくってきつくっとしんどい○○をやった」とは書かない。単に「○○をやった」と書くだけである。


だってそんなこと書く自分は見たくないから。見たくないくせに思うのであるから勝手である。


よって記録にはますます建設的創造的なことが書き留められる確率が高くなる。


それをみて意識は「けっこう調子よくやれているやんけ」「能率いいやんけ」「創造的やんけ」というとことに軸足を置き、ますます好調のスパイラルに移動していく、ということになる。


そういう循環の中でせっせと用事を片づけていくと、「今はやれないけれど、やっておいた方がいいこと」も思い浮かぶようになる。


思い浮かんだということだって「行為の一つ」であるから、「ということを思いついた」ということも手帳やノートの記録に書く。


続けてやれることならば、さっさとやって終わらせてしまうのがよろしい。


しかし、明日にならないと買いに行けないとか連絡がつかないとかというような条件がくっついている場合にはどうしたらいいか。


その場合は、自分のスケジュールを書いている手帳の実施可能日にそのむね書き写して、明日かあさっての自分に申し送りをして、自分のやることとしては終わらせてしまうのである。





というような内容が「計画しないからうまくいく講座」でYさんが学ばれたことである。


>最近は気付いたことをなるべく手帳に書くようにしていますが、昨日は久しぶりに「これをやっておかないとなあ」という頭で考えていることに身体が動かないままで過ごすことになり、気持ち良くありませんでした。
何か工夫する点があれば教えて下さい。。


行き詰まったら基本の戻れとよく言うが、その視点でYさんのメールの文言をながめるとと「最近は気づいたことをなるべく手帳に書くようにしています」と書かれている。


筆者のお薦めしてるのは「気づきの記録」ではなく、メインは「やったことの記録」である。


将来の一喜一憂ではなく、今を生きることへの舵の切りかえである。


ゆえに、今回の質問とかみ合っているかどうかは分からないけれども、「気づいたことを書く」のではなく「今何をしたのか書く」という基本に戻られてはいかが、というのが一応の答えになるのではないかと思われる。