1261話 整体的演奏にぐわんぐわんする

午前中和歌山で一仕事し、午後から大阪へ移動して夕方の早い時間からの整体の後、神戸へと急ぐ。


しかし、筆者がいくら急いでも、電車の速度は一定なので速くならない。


今日はK子さんが勤務し、しょうこさんがやっている神戸のメニームーンで横笛の福井幹さんとハープの小川由美さんのコンサートである。


王子公園駅から徒歩8分とのこと。


あまりに急いだためか、お店から5メートルの信号で8分に達しておらず、まだ6分台であった。


信号の向こうにそれっぽいお店の看板の光なども見えた。


ために筆者はお店のすぐ横を脱兎のごとく駆け抜け、さらにくだんのお店はただのスナックだったので、さらそこも一気に通り過ぎ、するとみるみる道は急坂になって山を登り、道行く人もいなくなってしまった。


ということで10分ほど無駄に費やして会場へ。


福井さんカリンバの演奏最中。


あれま。


身体中を気持ちよくたたいてもらっているような感触。なぜか笑いがこみ上げてくる。


さらに、由美さんのハープと福井さんの横笛。


読者のみなさまの理解を得ることを断念し、感じたことのみを書き連ねる。


いい音楽は整体だ。


筆者の押圧・整圧は、福井さんの笛に残念ながら遙かに劣る。


小細工を廃し、澄み切ればもっともっと深く浸透する整体になる。もっともっと邪念・邪心・細工・小細工を捨てねばならない。


澄み切れ、澄み切れ、澄み切れ、澄み切れ。


ピュアであれ。


このお二人は整体である。


由美さんのハープは左手である。受けであり、受容であり、包み込みであり、ベースである。


これがあって、福井さんの右手的浸透する笛の音が生きる。


このお二人によって、目指すべきものの形が一つ見えた。(ような気がする)


ありがとうございます。


押さえるのではないのだ。ふるわせればいいんだ。通っていけばいいんだ。届けばいいんだ。


共鳴を起こさず、通らず、届かないならやらない方がいいのかもしれない。



考えるな。感じろ。つながれ。「それ」に任せろ。



伝えようとするものがあるとき、楽器は「型」だ。


楽器は変わらない。変わる必要があるのは人間だ。


その笛のもって生まれたものに、人間の方が規定されるのだ。


それがあるレベルを超えると、家の前に生えていた竹を切って穴を開けただけのものが、空間を制する力を持つ。


うわっ


澄み切り度にしても、共鳴度にしても、型の創出度にしても、全然できてないぢゃないの。


福井さんは、いわゆる音楽教育を受けていない。


カリンバもギターもピアノも横笛も、独学だ。独学というよりは独楽だ。


ひたすらその楽器と対面し、対話して身につけた。


身につけたのはテクニックではない。


ひたすらおのれをなくすことを技として身につけたのだ。



音楽はどこからかやってきて、福井さんを通過して、楽器を通って聴き手に届く。



演劇塾のみなさんと一緒に聴き、一度体験を共有したいなと思った。


演劇塾でやれたのは、演じようとする意識にお休みしてもらって、登場人物そのものがそこに現れてくる、というところまでだ。


多数の観客と対峙して、その空間そのものをとらえるレベルのものは、まだまだ出ていない。



う〜。


ぐわんぐわんする。