1269話
昨日の空手の型の話しの続きになるかどうか。
古伝の空手の心身の使い方として、胸にライトを意識してそれを輝かせている身体性をキープしつつ動くと、いきなり強靱になり、当たりが強くあり、打たれても平気な度合いが増す、ということが紹介されている。
何をやる人であってもぜひ身につけられればいいと感じる、すばらしい教えである。
速効で効果を体験できる上に、その効果がすばらしくハイレベルである。
おそらく多くの方が、「これであらゆるプレーをすれば格段に上達すると考える」ところまでは一致すると思う。
しかし、問題なのはその先である。
たとえば、しっかりとした手ごたえを感じるように、体重を乗せ、腰を入れてパンチを打つ。稽古生の人にミットを持ってもらってそれを受けてもらう。それなりの悪くない手ごたえである。
その後、胸のライトが十分に光った身体の手ごたえのもとで、すぱっと素早く拳をミットに移動させる。体重を乗せるとか腰を入れるとか、強く打とうとするとかは一切入れない。
しかし、破壊力・相手の感じる手ごたえなどはこちらの方が格段に上である。
そこで「今後パンチを打つ時には、このライトを点灯させた状態で打つように気をつけよう」というような練習になると予想される。
しかし、元々その練習の内容は、ライトを点灯した時に現れる強靱かつ軽快な身体の状態を前提に組み立てられたものではない。
鍛えないと強くならない、速さを意識しないと速くならない「へたれ」な身体を前提に内容は組み立てられている。(と思う)
しかし、この「ライトをつけた時の身体」と「いつもの使い方」の差というのは、あまりにも歴然として大きい。
ということは、練習の内容そのものも変える必用がある。
へたれな自分に強さを足そうとする練習と、そのままの身体の連携やまとまりを最大に発揮させ、さらにその身体の上に氣の技術を乗せることができる土台になる練習というものでは、まったく別物になることが分かる。
足し算するトレーニングと、引き算しながら見えない部分の能力を高めていくような稽古。
化学肥料と農薬の農業と、無農薬有機農法あるいは自然農法の違いが近いかもしれない。
土中の微生物を殺す農薬を使えば、土は肥えないから、農薬を撒きながら有機農法をするというのは難しい。そうなると化学肥料をまかないわけにはいかなくなる。
だからやるとなると、徹底してやることが必用になる。
農薬を蒔きまくっている土に、刈り取った雑草をまいても肥えた土にはなってくれないだろう。
胸にライトをつけると現れる身体。その状態が当たり前になった身体が要求する次の段階と、時々思い出すレベルが考える次というのはまったく違うだろう。
一つが本当にできるようになって次がある。今感じるのはそういう図式である。