1271話

胸のライトを点けるという話の続き。


一時点いていたとしても、肝心なときに消えていたり、弱まっていたり、使うべき時には忘れていたりしているのでは、それこそ筋肉トレーニングの方がはるかにましかもしれない。


数ヶ月休んだら元の木阿弥と言われる筋トレだけど、一瞬でなくなることはないでしょうから。


宇城先生の説かれる武術的な身体というのは、だから完全に身につけた場合にのみ圧倒的な力を持ち、そこに至っていない場合は、とっても情けないことになる、ということが予想される。


つまり先生の説かれるように、「自転車に乗れるようになる」という例えのレベルまで、完全に身につけなさいということだ。


ということで日常で稽古をする。歩きながら、電車に乗りながら、車を運転しながら…


しかし、意識できている間なんてほんのひととき。すぐに忘れ、離れ、元の木阿弥である。


あるいは、意識はしているものの、レベルが低く身体性を変えるには至らない。つまり自己満足の気休めという事態にも遭遇する。


ハイレベルで意識し続けるにはどうしたらいいか。


今試みていい感触を得ているのは、自分に意識しないという方法。


人に同調し、一体化を試み、一体化した相手の方にライトを点け、まばゆく輝かせる。


我が身一つを光らせるよりも、集中の質と時間の長さともにこの方が良い。(ようだ)


一体化した相手の輝きを我が身にフィードバックして、それを感じる。


相手の中に光りを見る。


なんて書くとスピリチュアルな世界にひかれる方々が、筆者のことを崇高なる精神の人間と誤解してしまいそうだが(っていう心配はまったくないような気もするが)これはそういう高い精神性からスタートしたものではまったくない。


我が身かわいさで、効果的な方法を求めていった試行錯誤の結果、もっとも効率が良さそうだというきわめて打算的な計算の結果である。シビアな分析の結果である。


こういう結果になったからあらためて考えると、人は他人に対して、うらみ・つらみ・ねたみ・そねみ・悪口雑言・罵詈雑言・不平・不満・不足・文句・呪詛・呪縛を向けることは非常に多い。


確かに、丑の刻参りで、わら人形を木に打ち付けるようなことは日々実行されている方は少ないだろう。


しかし、電車が10分遅れたら、駅員さんに呪いの言葉を吐く人はざらにいる。しかし、定刻についたことに感謝の祈りを捧げる人はめったに見かけない。


良いことは当たり前で、少し崩れると非難の対象になりうるという価値観をお持ちの方は、呪いのプロフェッショナルである。


ゆえに、少々相手の中に光りを見る稽古をしたからといって、高い精神性が保たれるほど、筆者は清らかなどではない自覚はしっかりと持っているのであるが、やらないよりはましだろうとは思う。