1279話 知らないのに解ること

たとえば合掌行氣。


どうやるのが正しいのかなんてことは解らない人習い始めて間もない方々。


質問する人も「どういうふうにやるのが正しいのか?」という趣旨で質問される。


私自身も習って身につけていくというのは、そういう手順を踏むものだと思っていた。


つまり「こうやるのが正しい」というものがあって、言葉や見本手本という視覚情報を介してそれを理解して、その理解に向かって繰り返すと、いつしかその正しいものに達するという行程である。


しかし、シンプルな型を稽古していくようになると(って今頃何を言っているんだとも言えるけど)やり方の正しさをまず頭の理解で追いかける感性は、自分がそこそこ正しい手順をたどれるようになると、それをもって「そこそこできた」という勘違い登録をしてしまうことに気づいた。


しかし、本当に重要なのは、そこそこ正しい手順を覚えたかどうかということではなく、型の持つシンプルな動きの中からどれだけのものを現実に汲み取れたか、汲み出せたかということである。


正しいやり方なんてはじめから無視して、浅い解釈の自己流になって、何も汲み出せないというのもお話にならないけれど。


外見はおなじだけれども、実際にそこから生まれるものには天地の差がある、そういう差が出るような質の中身を身につけることがするべきことのようである。


それで再度合掌行氣。


正座して目を閉じて手のひらを合わせるだけの稽古だ、といえばそうだ。


あんまり単純だから、余計に、やっていて「これでいいのかな?」という気になるのも解る。


だから、正しい手順や心構えや意識の集めどころなんかを教えてもらわなくっちゃ、となる。


つまり教えてもらわないと解らないわよ、という思考になる。



合掌行氣をあまり詳しく知らない人同士を向かい合わせにして、前でやっている人を見て、気に入らないところやいいところを感じ取ってもらうようにしてみた。


すると「考えてやっている」「意識を集中しようというのを頭の中だけでやっている」「顔と肩が力んでいる」「手の位置が低すぎる」「腕に力みがある」「安定感がない」などなどと、実に的確に良くないところを指摘される。


同様にいいところもちゃんと指摘できる。


それで、相手の型を見て、気づいたところを自分の型で修正するようにしてもらうと、ちゃんとどんどん正しい方向へ、深みのある方向へと修正できる。


正しいのはどういうものなのか、ということを教えていないにもかかわらずである。


ということは、詳しく正解を習わなくっても、より正しい方向へちゃんと持って行ける能力を持っているということになる。


にもかかわらず事前に正解を教えてほしいという質問になる背景には、教えてもらえばできるという前提を持っているということだ。


しかし、現実は違う。


人の型を見て、そのおかしいところを自分の型で修正していく稽古が成り立つということは、人の型でチェックするまで、自分がそんなふうにおかしなことをしているという自覚がなかったということなのである。自覚があればすでに修正されているはずである。


ということは、例えその人に「こういう手順と意識でやるのが正解」ということを伝えたとしても、その伝えられたことをちゃんとやれているかというチェックは、はなはだ甘いということを表している。ということは、詳しく習ったってできない、ということになる。


それぐらい自分に甘い。自分の現実を知らない。(これことごとく筆者自身のことである)


これは悲しい話だけれど、そうそう悲観的な面ばかりでもない。


自分に甘く、自分の現実を見ていないからこの程度のレベルのまんまなのである。


他人を見るように自分が見えれば、どしどし改善できるのである。


「いや〜、それが難しいんですよね」


なんて言っていると、そのままず〜っと行く。


天賦の才に恵まれている方々は、そんなところにはひっかからず、上達する路線にさらっと乗られているのであろうか。


少なくとも筆者はそうではない。基準が正された部分だけに初めて上達の可能性が出てくる。