1307話
宮大工、西岡常一棟梁の弟子、小川三夫さんの著書「木のいのち 木のこころ」地の巻に、宮大工たちが、仕事が終わってから、数時間かけて道具の刃を研ぐということが書かれている。
それは、時間をかけてとびっきりの切れ味の刃をつけている作業だと思っていた。
違うような気がしてきた。
もちろん、とびっきりの切れ味の刃をつけているのは、そうだろうと思う。
だけどそれは「道具の刃をつける」という、「使い手」と「道具」を分離した感覚のものじゃないように感じてきた。
宮大工たちは、砥石をかけながら、その摩耗した刃先が、今どれぐらい鋭角に変化してきて、どれぐらいの鋭さになってきたというのを、年期をかけているうちに、刃先を見ないでも手の内に感じるようになっていくのではないかと想像する。
道具を身体の一部のように感じていくのではないか。
道具の癖を知り尽くしているというよりは、研ぐ中で徐々に変化していく刃先を感じて、その癖、個性、特性などを身体の一部として取り込んでいるのではないか。
刃先が、木の表面にどんなふうに食い込んで、どんなふうに表皮をはぎ取っているのか、というのがアップで、あるいは拡大画面で見ているかのように感じているのではないか。
その道具=刃先は自分の一部だから、自分の一部が木に食い込んで削り取っているかのように感じているのではないか。
紋トレを続けていてそう感じた。