1344話

呆然の昨日から一日。


いくぶん整理がついてきた状態なので、テーマを言葉にするなら、何のこっちゃない「人の振り見て我が振り直せ稽古法」である。


より正確に書くと「他人の『その機能やはたらき』を『感視』すると、我が身のその『機能やはたらき』が自動補正される」ということになろう。


本当に簡単なことであるけれども、誰もが常識に縛られてその力が発揮できない。


というようなものであると思ってきたけれども、もしかしたら、名人達人天才のたぐいの方は、あらゆる事象からぐいぐいと吸収できる「それ」を体感されているのかな、とも思う。


しかし、道場に集うみなさま方と、この二日間検証を重ねたけれども、筆者を筆頭にどなたもそういう回路では物事を認識してはおられなかった。


その効果は、柔軟性のアップ、スピードの加速、敏捷性、安定性などの運動各方面に及ぶのはもちろんであるが、(ここ、八木さん大事でっせ)発声・会話においても劇的に変化が起こせるようだ。


それを使って「ハチミツレモン」のペットボトルの裏面の「説明書」を読んでみたが、実に感動的な「朗読」となった。


言葉が身体の芯に響くのである。


土曜夜のクラス出席の方々が、ただ生年月日やら現住所を語るだけで、相手の心(体の芯)に響くことを確認した。


単に演劇的なセリフだけでなく、あらゆる教師講師など「人前で話をする」お仕事の方々は、この「心に響く会話・発声」を体得されるべきであろうと痛感した。事実、K高校のI先生、H高校のM先生も、ちゃんと「ショックを受けて」頂いたことからも、今までの「上滑りする言葉」とのギャップは明らかなようである。


というか、今まで「届かない言葉をただ吐いていただけ」という思いを持つかも知れない。


つまり、日常の会話そのものが、空虚な受取手のないものなんだ、ということが「届く体験」を経て明らかになった。


今まで世の中を、まわりを、なんと平面的にながめていたことだろう。


そうなると、みずからを囲むあらゆる人・物事・ものは、全て学びの対象となる。


それは「それらの事柄から、学ぶべき価値のある対象を引き出す」とか「教訓を学び取る」というものではなく、瞬間瞬間に現れているそれをキャッチし、向上への変化がもたらされている自覚の上に乗っかる、という感じだ。


スポーツで考えれば、試合・練習・日常生活というのは、分離されているが、それらは切り離しようがなくなる。


自分だけの上達というものもなくなる。


この人はできている、この人はできていない、とか、この人は強いとかこの人は弱いとかもなくなる。


というような世界の端っこにいると思う。