1447話 何もなかった記念日

たとえば、不治の病の宣告を受けた方が、そこから意識の転換をして、すばらしい生き方をされる、というような話を観たり、読んだり、聞いたりすることがある。


私は、決して今の私には満足をしていないので、願わくばそういう「すばらしい生き方」の方に少しでも近づければば、と思うが、「余命○年 ○ヶ月」というような悲劇の宣告と引き替えに得たくはない。


ということで、前々からアイデアはあったのだけれども、開始していなかったことを開始した。


それは3月6日からの話である。


この日、筆者には「前途を絶望するような、世の無常を恨むような致命的な悪しきことが、『何もおこらなかった日』であり、その公式記録第一日目として、常用しているダイアリーに墨痕鮮やかに(ホントはボールペンだけど)「1」と記された日なのである。


それから20日がたつ。


世には「今日あった良いこと」を記録する方法を提唱されている方もおられる。


これも、そのうち試してみる価値はありそうに思う。記録に残そうとして積極的に「いいことを見つける、作り出す」回路が活性化するようにも思う。


しかし、こちらのいいのはさらに簡単だということである。今日は何も起こらなかった日かどうかを毎夜検討しなおさなくても、「無事」であったということは明白である。だって、何事か起こったら、それどころじゃないんだから。さらに、そういう今日一日の振り返りなどの作業をを忘れても、なんらダメージはない。


いいこと記録の方は、忘れたら「きゃあ、昨日はいいことがなかった日になっちゃったわ」ということになるが、「何事もなかった日」は、記録を忘れても、忘れたことにならないという強みがある。三日ぐらい忘れても、今日が「何事もなかった何日目」というのは色あせることなく、記録は加算されていく。


「今日も致命的に悪いことが起こらなかった」というのは、探さなくても解る。実に便利である。


よ〜く考えれば、致命的にショックなことなどは、生きている限り、実は必ず起こる。


自分が先に行くか、後にいくかだけで、愛する家族や両親などとの別れというのは必ずある。


死別に至らなくても、事故やけがや病気が、たっくさんいる筆者にとって大事な人のうち、誰かに襲いかからない可能性の方が小さい。


そういった「実は自明のことなのに忘れていること」を、「何もなかった記念すべき第一日目」以後、週のうち何度も何度も思い出すようになる。


なんぜ、思い出した日には、ダイアリーの日記欄に、「致命的に悪いことが起こらなかった日の、第一日目から今日で何日目か」というのだけは記録しているのである。簡単である。単に数字だけ書くだけである。


単に数字を書くだけなんだけれども、日々めでたさありがたさが増してくるので、最近は☆印で囲んでいる。


それが今日で20日という訳である。


開始してすぐに、致命的な宣告や出来事があったっておかしくはない。可能性は皆無ではない。


それがもう20日も「何事もなく」過ぎていく。何事もないどころか、けっこう楽しいことやめでたいことがその中にはちりばめられている。


さらに、私自身に何事もなかったことがめでたいばかりでなく、母上や家族たちにも、何事もなかったということがじわじわとめでたさ、ありがたさの中に加算されていく。


日々、そういうありがたさの中で過ごされている方もおられるであろうが、筆者の場合は「起算日」を設定したことが決定的に大きかった。


何かいいことがないと「いい日」にはならなかったものが、何もないだけですばらしい記録更新になるのである。金本のフルイニング連続出場記録のようなものである。


日掛けの、「積み立て預金」をしているような気分である。


そして、何百日後か何千日後かに「致命的な日」が訪れた時には、「いつ起こってもおかしくなっかったその日が、実に今日まで何百日、年千日も延期されていたような「お得感」で、ショックがやわらぐのではないか、と予想しているのだが、これもその日に解ればいいことだ。