来週は演劇塾
次の日曜日から二回ほど、劇団未来さんの演劇ワークショップの講師として行かせてもらいます。
担当は「ボディチューニング」です。
高校の同級生が劇団を旗揚げして活動していたので、演劇をされる方々とは20年以上ご縁がある筆者です。
わりと身近に舞台裏を見ていて、いつも感じていたのは、コンディションのいい状態で公演を迎えている役者さんはほとんどいない、ということ。稽古が終わってからもなんやかんや準備したり打ち合わせしたりで、首も肩も心もガチガチで公演を迎えているのがいつもの光景。
なので、少しでもましに舞台に上がってほしいなと楽屋におじゃましては、やわらぐお手伝いなどをしておりました。(時々だけど)
今回ともに講師をする八木氏も、「演奏家が楽器のチューニングを当たり前とするように、役者も身体のチューニングをするのが必要不可欠ではないか」ということを提唱し、過去三年いろいろと共同研究を進めてきての今回です。
ということで、何ゆえに演劇塾に整体的(武術的)な身体操作およびチューニングなのか、ということを、あらためて考える筆者なのであります。
整体というのは、バキバキッっと関節の矯正をするもののようなイメージが流布しておりますが、筆者が学んだ野口整体の技法というものは、そういうものではありませんでした。
整体というのは、その相手と空間を共有して関係を結ぶことで、相手の心身に望ましい変化を促す行為です。
だから上手い人になるほど、相手との間合いの取り方や何気ない一言で相手を変えていきます。施術時間も短く、指で押さえるのも柔らかく物理的な圧迫は限りなく少なく、短時間になります。
常に「相手にどうかかわれば、変化を呼び起こすことができるのか」というのを追いかけているわけです。
「演劇空間」なんて言葉があるように、演劇というのは観客と一つの空間を共有しております。そしてもちろん相手役とも空間を共有している。
相手(観客及び相手役)が変化してしまうような何かが伝わらないと、意味のないというところが共通している。
そして、すくなくとも整体では「私が」どうする、というのが強いほど、効かないのであります。
ぎゅうぎゅう押さえるほど、表面にしか効かない。相手の奥には届かない。より広い範囲には響かないのであります。
そして手から作為が消えるほど、相手はどんどん動いていく。変わっていく。
これは、演劇でも同じ光景を目にすることは多いです。結果が来ないで作為が伝わってくる。
悲しさや不安が伝わってこないで、「ああ、悲しさを表現しようとしているのだな」「不安を表現しようとしているのだな」というのがむき出しになっているだけで、少しもこちらの心身は変わらない。
相手が変わっていく度合いを上げるための稽古というのは、「私がこうする」という出力系の稽古は少ない。「相手は今どうなっているのかを感じ取る」という、いうならば入力系の稽古になります。相手を感じる感度を上げる稽古です。
そして、感度を上げようとする時、邪魔になるのが自分の身についた癖、こり、こわばり、ひずみ、歪み、力みです。それらは、感覚をとらえようとする際に、不必要に自己主張して、相手を感じようとするメモリーの容量を減らします。
だから、そういった『癖、こり、こわばり、ひずみ、歪み、力み』をこそげ取るような稽古が必須となります。そうやってニュートラルな自分にリセットしつつ、相手や環境を感じ取る感度を上げると、自然と自分はどうふるまえばいいのか、というのが現れます。
ニュートラルにリセットしつつ、感度を上げるという条件を加えた時に、同じ人の「演技」の伝わり方が、どう変わるのか、ということを主としてやりたいな、と思っています。
というふうに説明すると、まあまあ意識はついてくるんじゃないかなと思いますが、ホントはそういう「納得したところからスタートしたもの」というのは使い物にならない。
納得からスタートすると、「こういうものだろう」というものを作ってしまう。今までの自分の続きでやろうとする。すると、今までやっていたこととたいして変わらないものしか出てこない。
自分が「思ってもなかったこと」が出てこないと効かない。自分でもなぜそうやったかうまく説明できないようなものが、相手に届き、相手を変えるのです。
というような説明をしてから、演劇塾の「チューニング講座」を始めようかと考えていますが、もう書いちゃったので、受講するみなさん、読んでね。