エネルギーの出所

ある健康体操指導者の方との話の中で出てきた「ある人」。


あまりにやりにくさに、思わず同業者同士の話の中に出てきてしまったのである。


ご自分も高齢者向けの健康体操を指導しているのだけれど、それが解ったのは入会後ずいぶんたってから。


場所は、ど真ん中のど真ん前に早くから陣取る。


これで、目をランランと輝かせ、熱心に取り組んでいるのであれば、なんら問題はない。


問題なのは、その方が徹底的に「自分がやりたいことしかしない」ということらしい。


「腰が痛い」というのがその理由だから、それは別に珍しいことではない。逆に無理してレッスン内容に合わせようとして、悪化させるようなことは、指導する側はまったく本意ではないので、そういう申告は逆に歓迎するぐらいのものである。


そして、その「腰痛を維持しているようなその人の体の使い方やありかた」に対して、好ましい変化を呼び起こせるような誘導や問いかけをして、軽減・解消して、お互いに


「めでたし、めでたし」


ということが楽しくて教室活動を続けているのである。


そこに必須なのは、相手に対するこちらの問いかけに対して、相手が応えるということである。


もちろん、お年寄りなどで、こちらの説明がすらすら通らないことはある。しかし、その場合は、その方が解るように誘導・説明できないこちら側の問題である。説明を変え、例を出し、時間をかけて理解してもらう。


すると、好ましい変化が生まれる。時間をかければ解決するのである。だから、長期的に見えれば問題にはなっていない。


ところが、この受講生は、その「コミュニケーション」の部分が取れない。


指導側が「これなら、そういう痛みを持った方でも無理がなく、変化を呼び起こせる方法だ」というものを、遠くまで勉強に出かけ、自分で実践して咀嚼し、自分の教室にあった方に少しアレンジして、授業に取り入れる。


もちろん、その時点で完全だなんて思っていないから、受講される側の状況に応じて適宜改善していく。


そのためにも、まずはとりあえずやってみる、ということをしていただかないと改善すらできない。


その指導者の方は、その腰痛の人に、「ほぼ誰にでもできる無理のない方法」をさらに「あなた向きには、さらにこうアレンジしてやってみてね」という提案をする。


しかし、自分が気に入らないと、ど真ん前のど真ん中で、じっとリラクゼーションポーズを続けているそうである。私は、私の判断で、無理になると「私が」思ったら、じっと寝ています、ということなのだ。


「先生に提案してもらったやり方では、ここはましですが、ここに痛みがきます」


ということであれば、「じゃあ、こういうふうなアレンジに変えてみましょう」という「次」に入れるが、その部分をさらりと拒否しているのである。


だから、やりにくい。


だったら何しに来ているのかというと、その方も健康体操指導者だ、という冒頭の部分に戻る。


ネタを拾いに来ているのである。


その方から「色々な教室に行きましたが、先生の教室が一番勉強になります」


ということは言われたそうだ。




私が料理人でお店をやっているとする。


和食の店だとする。


おいしい和食をお客さんに提供しようと工夫する。


定期的に来るお客さんがある。


毎回7品ほどをコースで出す。


「これは特においしいんですよ、ぜひ味わってください」という一言なんて付けて出す。


しかし、その人は4品しか食べない。


残り3品は「私にはおいしくない」と言っているのである。


でも、「メニューやレシピが『私以外の人向けに』参考になるから来ています」という態度である。



「あなたの誘導する健康体操は、私にはたいして効果がないから、私の判断で無理にならないように取捨選択するけれど、あなたの話す内容は、私が教室をする際のネタとしてとても有効なので、最前列中央で聞きます」



というような人は、私の道場でも来てほしくない。


なぜなら、私はとてもいびつで、偏屈で、自己中心的で、しかもその才能や能力には限界がある。というかちょっとしかない。若いときには自分をやればできると思っているが、50年も生きていれば、「こういうことしかできない人間だ」ということの自覚もいやでも進む。


しかし、そういう自分の提供するものでも、年の功で、本当に必要としている人に「はまった」時には、劇的な好転をもたらすこともある。


限られた資源なのだから、そして、それが今許される状況であるのだから、可能な限り、そういうご縁に使いたいと思う。


自分を必要としている人に応えたいと思う。


私を必要とはしていないが、私の提供する「ネタだけがほしい」という人を目の前にして、平然としていられるほどの人格者ではない。


私のエネルギーは、私を必要として下さっている人によって引き出されているのである。


感謝。