生キャラメル

※今日の内容は、いつにも増して「筆者の戯言度」が高いので、無理に読む必要はありません。


電車のつり広告で「阪急百貨店 冬の北海道物産展」とかなんとか。


目玉商品がならび「○○牧場の生キャラメル」も、目玉として紹介されていた。


ふと疑問に思った。


生キャラメルは、何を根拠に「生(なま」と)冠することができるのか。


通常「なま」を冠する食品というのは、「加熱処理しておりません」というものに使われる。生野菜であり、生ビールである。


しかし、この意味から言えば、このキャラメルは決して生ではない。


「○○牧場生キャラメル工場に潜入」というような映像を見たけれども、そこでは、銅の鍋で一人の人がずっとかき混ぜ続けて、煮詰めて作っている。煮詰めている以上は加熱処理されており、生ではない。


その製造方法は、確かに「手作り」であって、「お花○牧場のてづくりキャラメル」であれば、筆者は何もこんなところでぐたぐたと愚説を開陳したりはしておらなかったであろう。


しかしかのキャラメルは「生」と冠されてしまった。


おそらくは、「今までのキャラメルとはキャラメルが違うんだけんね」ということをぐぐぐっと強調したかったに違いない。


今までのキャラメルとは何かといえば、やはりキャラメルといえば森永のミルクキャラメルであろう。


ともに加熱処理されているだろうに、自分の方だけを一方的に「生あつかい」することに筆者は憤りを感じるのである。


我がキャラメルを「生」扱いすることによって、無言のうちに比較される森永キャラメルをおとしめているのである。


生と対応するものに、「加熱処理されたもの」という一般的概念を指摘した。


明らかにともに「加熱処理されたもの同士」である以上は、「僕だけは加熱処理されていません」という「生宣言」は虚偽表示である。


命名者はその無意識領域において、「私どものキャラメルの状態こそがキャラメルの自然状態であり、今までみなさんが食べていたキャラメルは、自然状態から加工を経たキャラメルからちょっとずれた状態なのよ、というメッセージを発している。


「加熱」という方法以外で、生とそうでないものを分けているものに準じた状態でっせ、という無言のメッセージを発しているのである。


それは何か。筆者のするどい洞察力は、たちまちにして広き食品加工の海の中から、「生」と「干物」という関係を見つけ出した。


つまり、「お○畑牧場の生キャラメル」という命名をした瞬間に、森永ミルクキャラメルは「キャラメルの干物だ」という宣告を受けたことになるのである。何か強引だなあと思うかもしれないが、しかし、そうなのである。



以上の真相をお○畑牧場の社長につきつけたならば、あまりに図星な指摘に、一瞬は絶句するY武社長であろう。


しかし、筆者の灰色の脳細胞は、かかる指摘がなされた場合のお○畑牧場側の弁明もまた、すでに察知しているのである。


生という文字には「新鮮でっせ」「加熱加工してませんで」という意味でつけたのではおまへん、と言うであろう。


生兵法の生であり、なまっちょろいの生なんです、と弁明するであろう。


「未だ成熟しておりません」という意味でございますだ、と付け加えるだろう。


この場合の「生」をネイティブの関西語に翻訳すると「へたれ」となり、やや知的に表現すると「根性無し」という意訳がなされる。


確かに、この解釈であれば、品質と一致する。


「生キャラメルの口溶けの良さ」などという妄言にまどわされるなかれ。


口の中にろくにとどまっておれない「へたれ」なのである。ろくに歯にひっつくこともできない「根性無し」なのである。


パッケージを見よ。


なにゆえ三角チーズのような丸い容器なのか。なにゆえ、そのパッケージの体積に対して中身が圧倒的にすくないのか。余白だらけではないか。


ひるがえって見よ。森永ミルクキャラメルの緻密さを。一粒一粒緻密にきちんと包み込まれ、一部の隙もなく四角い箱にきちんと収まる様を。


それはあたかも、400年の昔、徳川家康をも震撼させ、その300年の後には西南の役において、西郷隆盛率いる薩摩武士団数万人の怒濤の攻撃をも跳ね返した名将・加藤清正のつくりし名城・熊本城の石垣をも彷彿させるではないか。


これはもう、のだめの部屋と千秋先輩の部屋ぐらいの違いである。


つまり「生キャラメル」とは、善良な一般市民のみなさまには「これこそがキャラメルの自然状態であり、うちのキャラメル以外はまっ『干物』でんね、ひっひっひ」という誤解を生じさせ、そのことを指摘された際には「いえいえ、うちどもは決してそんな思いで『生』の字をつけたのではおまへん。生兵法の生、生意気の生、へたれで根性なしの未熟者なのでございます。なにとぞお代官さま、よしなに、よしなに」という言い訳によって虚偽表示の指摘から脱するという巧妙に周到に用意された魑魅魍魎の跋扈するブラックホールのごとき菓子なのである。


以上のようなことを、ちらりと見た電車の吊り広告で一瞬のうちに看破した筆者のしぶ〜い推理なのである。


なお、以上の推論に対しての言論による反論は一切受け付けない。


かかる重要な指摘に対して、机上の空論を戦わせても意味はない。実証あるのみである。


「生キャラメルはそんなあこぎなものじゃないわ」という主張の方は、「生キャラメル」現物を持参の上、筆者に進呈するべしである。


筆者は、熟食・熟考の上、万が一いいがかりの要素がないかどうか、検討に検討を重ねるであろう。


できれば5箱ね。家族にもよ〜く意見を聞きたいから。