時間差
なんば駅構内の本屋で「勝負脳の鍛え方 講談社新書」をぱらぱらとめくっていた。
ら、マイケルジョーダンは
「シュートを打つ前にそれが入るかどうか分かる」
というような記述があり、それに著者が「なぜ、そういうことが分かるのか、仮説だが…」
というところまでをちらっと読んで先を急いだので、著者がなんと書いていたのかは分からない。
そういう終わり方をすると、結論がないだけに、脳?がそれを引きずりいろいろと考える。
人の意識というのは実にいいかげんなもので、ふだんの何気ない動作は、意図して体を動かしているようで、実はその大半は動いた0.5秒後に「そういう意図で動いた」という「つじつま合わせの記憶をつくっている」というのが実態らしい。
コップを取ろうと思ってコップを取るのではなく、コップに手を伸ばした後で、「コップを取ろうと思った」という命令を出したことにしているのである。
いつもいつもそうだという訳ではなく、一致している時もある。いわゆる「緊急事態」は一致しているらしい。
が、そういう「緊急時」には、「無意識に動いている」というのが実感なわけで、「そうするつもりもなく、できてしまった」というのが実態であったりする。
そういう説を知るずいぶん前に、こういう話も聞いた。
「夜中に穴に落ちる夢をみて、体がびくっとする」というのは、実は体がびくっとなった時に、穴に落ちた夢を見た記憶を作ったのだ、という説。
ゆえに、マイケルジョーダンの「シュートを打つ前に、入るかどうか分かる」というのは、入ってから、「入るかどうかわからなかった時に、分かった記憶」を作っている可能性だってある。
だから、この文章だって、こういうことが書きたいと思って書いているようで、実は、書いてから「ふ〜ん、俺ってそんなことが言いたかったんだ」というのが実際なのである。
こんなことも思い出す。
学生時代に自宅でだらだらしていて、業を煮やした母親が
「いいかげん勉強しなさい」
とか
「宿題はやったの」
と声を荒げる。
で
「今やろうと思ったのに、言うんだから、やる気なくなったわ」
と口答えをする。
これは、CMでもそういう場面があったので、筆者だけの体験ではなく、かなりの数の「同じ経験のある方々」がおられるという証拠であろう。
ここで二つの解釈ができる。
母親というのは、子どもが心中密かに「よし、だらだらしていたけれども今からずばっと気合いを入れて勉強するぞ」と思った瞬間に間髪入れず
「勉強しなさい!」
という能力に長けている。
という解釈と
母親の叱責の言葉が飛んだ瞬間に、まったく無意識に「一瞬前に、勉強を始めるぞと決意したねつ造記憶を作る」という解釈である。
なんで、母親というのは気勢をそぐのに長けているんだろうと思っていたが、実は、怒られた瞬間に自己を正当化する記憶を作るという私だった、という解釈の方が正しいような気がする。
グレードはずいぶんと違うが、日野先生が最近強調されている「からだは動かすものではなく、動くものだ」というのも、そういう自意識と実際の行為のずれのことを書かれているのかなと思われる。
ということで、「そういう時間差ねつ造意識の私の意識」を前提としないで、動作の改善や意識がつくりだしているこわばりを解消しようとしてもうまくはいかない。
ではどうしたらいいのか、というのがここに来るべき結論でしょうけど、そんなものがあっさりわかったら苦労はないわい、という実に無責任な結論で唐突に終わるのである。
わかんないから、日夜あれこれ試みることが楽しいのである。