太刀魚の立ち泳ぎ
背骨を磨いております。
今日は、実家経由で亡父の墓参りの日。
和歌山から移動の車中、今日は「のだめカンタービレ 最終楽章 オリジナル・サウンドトラック DISC1」をBGMに、車中せっせと「体感記憶の再生法」で背骨を磨く。
「ベートーベン交響曲第7番第一楽章」で明るく華やかに磨き、「第四楽章」で軽快にアップテンポに磨き、「ラヴェルのボレロ」で黙々とじわじわと尻上がりに磨き、「チャイコフスキー:序曲「1812年」でドラマチックに磨く。
おおおお。
脊柱というものの体感が深まると、すくっと柱が屹立するかと思えばさにあらず。
深まるほど無くなるのである。
そこには「ゆらゆら」というゆらめきだけがありました。
魚の「はも」や「太刀魚」や「あなご」のような、薄っぺらい長い魚が、昆布のように立ち泳ぎしている感覚である。
上から下までその状態かと言えば、ところどころに「岩礁」がある。岩がじゃまになってゆらゆらできないところがある。
だから余計に思うことがある。
こりやこわばりはほぐすものじゃない。
体の中には「『こり』ようのないもの」がある。「張るのは無理なもの」がある。そこが自然だと確かに感じる。そこからわざわざはずれて、こりや張りを作り出しているんだと。
だから、その立ち位置の誤解を解くことが肝要である。
こりやこわばりや張りは、取ろうとするものではない。
凝るに凝れない、張るに腫れない、こわばろうともこわばれない体が、深奥にある。そこに帰るのが先決である。
皮膚弾力に浸ること半年間、背骨を磨くことまだ10日目の体感である。 まだまだ先はあるんだろうけれど、備忘のために記す。