こり・孤立説 前編

昨日の続き。


朝に、「ヨガのポーズをきっかけにして、背骨の自律調整運動を存分に出す」とうことをやって午後。


I中さんのお母さんの出張。すると、午前の試みの効果で、皮下チューニングを「手にまかせてやってもらう」感覚になる。と、40分以上の高速運動にもかかわらず疲れない。その後でM橋さんのお母さんにも「40分近くの連続高速運動」にもかかわらず疲れない。


ちょいとイスに座っても、肘掛けに当たる「脇腹」の部分から腕が生えているような、いまだ体験したことのないからだの感触になっている。


夜、とことこと走りながら実家へと向かっていて、走りながらお月さんがきれいなのに気づき、ふっと見上げてから気がついたら、突然走るのが速くなっている。


自然体のつもりで、どこか「無意識の手ごたえをつくってしまっている」走りに、変化を促すことができた。まだこれだけだけど、今後のヒントになりそう。


土曜日


【整体武術 朝】


武術クラス。昨日の「月を見上げたら、ふっと動きが変化した」をヒントに、参加者それぞれの「早歩き」をさらに変化させる「癖抜き法」をご披露。



【自然体チューニング(昼)】


皮下チューニングを「かける側」の人も、その腕の使い方は「無意識にしみついた癖」で「いつもどおり」に使っている。


その使い方は、はやり「部分的」に頼っているので、長時間やると疲れる。


その無意識に頼っている部分は硬く浮き出てくる。


そこで、皮下チューニングをかけている人の「浮いてくるこわばり」に、さらにもう一人の人が皮下チューニングをかける。三連チューニングである。


意識に対応して出てきたこわばりに、高速皮膚運動をかけると、逆流して「こういうふうに腕を動かそう」としている人の自意識を消してしまう。すると、腕が「意識的な制御」から外れる。すると、相手との接点から得られる情報に対応しての動きが出てくる。ブレーキが外れて、自由闊達な動きになる。


意識の方は「何がなんだかわかりませ〜ん」なのだけれども、手の方はいい動きをするし、受け手の方が「圧倒的にこっちの方がいいです」という状態になる。疲れない。




【夜 整体教室】


「20世紀少年方式」を練習する。


「コリ」「こわばり」「硬直」「硬結」など、大小の硬い固まりがある。


力が入って抜けきらない状態と言える。


一部ががんばっている状態である。しかし、一部が突出してがんばると、その他の部分と連携が効かなくなる。他が助けてくれないので、ますますそこだけでがんばらざるを得なくなる。そして、ますますそこだけ疲れて硬くなる、という悪循環になる。


朝昼の稽古は、「全体の使い方を自然に戻すことで、余分な力みを生む回路から乗り換えを促す方法」であった。


夜の稽古は「でも現にあるコリをどうするの」という稽古である。


前々から密かに研究してきた「20世紀少年方式」をご披露する。


前記したように「こわばる=力む」部分というのは、他との連動・連携が効かない。言いかえると「孤立」しているのである。


通常こりは「萎縮・硬化」などと言われるが、それはこりを単品で見ているからこその表現である。コリと弾力のあるその他の部分の関係性から見直すと、コリは「孤立」である。


「コリ、孤立説」である。


コリを「萎縮・硬化」と見るから、「そこを温める」「血行を促す」「もみほぐす」などの対処が行われている。


しかし、コリを「孤立」ととらえると、対処法はまったく違うものが浮上してくる。


それを筆者は「20世紀少年」のDVDを観ていて天啓を得た。


続きは明日